君の名は希望

優馬くんの名前は希望と今 知った

The Silver Tassie 銀杯

見て来ました。初世田谷パブリックシアター
遂に優馬くんがここまで連れてきてくれたんだ、って思いながら劇場の前に立ってたのすごく感慨深かった。(しょっぱなから激重テンション)

この記事、観劇した翌日から書き始めたのですが。
観劇した日の夜、布団の中で目を瞑ると共同住宅で声高らかに歌う群衆とか、仄暗い戦場で楽しそうに歌う人形とか、担架の上で踊る骨ばった兵士とか、何度も何度も病室を往復するハリーとか、色んな場面の色んな人々が一気にフラッシュバックしてうまく眠れなかった。
観た直後は、噛み応えが凄すぎるので咀嚼するので精一杯って感じですが、飲み込んだものが後からジワジワ効いてきて台詞や歌が頭の中でリフレインするような面白さがありました。
以下、感想を書きますが、なんせ私が無知すぎるのと、一度の観劇なので今までで一番自分の主観たっぷりな予感がします笑。


■前半
まず物語に入り込む前にやっぱりあのセットが特殊で、見入ってしまいますよね。
上下ではなく左右の傾斜。情報として知ってはいたけど、実際に見ると感覚が狂うし、まず初めに平衡感覚を奪われたのはインパクトが大きかった。
でもずっとその傾斜の上で動く登場人物を見ていると、慣れてしまう。あたかも平行の世界にいるみたいに自由に動く人たちに錯覚させられる。
「ハリー達にとっては普通の世界でも、私にはあんなに歪んで見える」そのことを客観的に感じることで、もしかしたら自分の住む世界も人から見たら…と回りまわって自分の日常に返ってくるのが面白かった。
あとよく考えたら、地球は丸いんだし、人類みんな平行の世界で暮らしてると錯覚してるんだよな、っていうのもふと考えた。そう思うと、ハリー達の世界も、私たちの世界も変わらないんだよね…。

と、そんな傾斜がある世界で物語は進むのですが。
とにかく人々のエネルギーが凄い。生、生、生、生って感じで全員が生きていることを感じている歌がすごく印象に残った。
死と隣り合わせで、生が脅かされる生活を送ると、より一層生きていることを実感するのかな。その生々しいエネルギーが渦巻いていた。
その真ん中に自信に満ち溢れた表情で堂々と立つハリーは、揺るぎもせず世界の中心は自分だと思いながら歌っている。この姿がまあ似合うんだよな。
あのビジュアルももちろんだけど、真ん中が似合う人、フットボールの神様に選ばれた人、圧倒的な主人公、そんなハリーと優馬くん自身が持つ華やかさが上手くマッチしていた。
森さんは北斗を見てオファーをしたと言っていたけど、あの作品は優馬くんの華やかさやアイドル性を徹底的に消したものだったから、これは偶然の産物だったのかなあ、と。だとしたらとても面白い。
とにかく序盤のハリーは、すべてを手に入れ希望に満ちた若者で。怖いものなんて何もない、戦争さえ怖くない、そんな根拠のない自信も堂々と持つ人。
でも戦時下ではこういう自信家で堂々とした人や、明るい出来事を持ち帰る人にみんな縋って明日へ希望を繋いでいたんだろうなって。英雄を信じ、期待することは生活を豊かにする為の人々の術なんだろうな、と異様に盛り上がる共同住宅の人たちを見て思った。

そんな場面から一転して、薄暗い場所に乱雑に大砲が置かれたシーン。森さんの斬新な挑戦となった人形での戦争描写。きっと見た人が夢に出てくるのは主にここですよね。
でもまさに夢なのか現実なのかよく分からない、とにかく空気が薄そうな感じがする寒々しい空間。なのに人形たちは楽しそうに踊り歌い、タバコを吸ってサッカーをする。
爆弾が落ちたり、人が撃たれたり、地雷がはじけたり、人の腕だけが転がってたり、いわゆる凄惨な表現はひとつもない。リアリティーがひとつもない戦争。
でもなぜかゾッとする空間。あの人形たちにとってはこれがもはや日常で、楽しむ術さえ覚えている。苦しみの中に少しの楽しみをみつけ、とにかく明日を待つ。その感じが私は凄く怖かった。
体験をしてない戦争を想像出来ないのは当たり前だけど、戦争の合間の兵士たちの暮らしは妙に見覚えがあって。急に戦争が親近感をもって隣に座ってきた、みたいな怖さ。
私の日常に入り込もうとする戦争の描写は、爆弾が落ちたり、人が撃たれたりすることより恐怖感を覚えた。なんだろうなあのゾワゾワ感…。
戦争に誰かの意思はないんだな、って。兵士は理由も分からず戦場にいるんだなって。戦うべくして戦ってるわけじゃない。
そのことに「なんで俺らはここにいる」と何度も繰り返し歌われて気づく。そういうひとつひとつジワジワ攻めてくる恐ろしさが、滑稽でコミカルな人形とアンバランスで余計怖さを煽る。
みんな誰だか分からないのも怖い。唯一、人間として縛られているバーニーだって、ニワトリを盗んだ(将校の女に手を出した)から人間として存在しているだけで。
だって戦場でまだ性欲が余ってるバーニーの方が人間らしいなんてすごい怖いじゃん…。他の人はきっとその性欲すらないんだもんな…。
ハリーが出てこないってなってはいるけど、あの人形はみんなハリーかもしれない。いや、ハリーでもあるし、ハリーでもない。きっとそれくらい戦場では「個人の特定」はされない。みんな人形。誰が誰かはどうでもいい。
私は人形で戦争を描写されることで、戦争を「人間らしさを奪うもの」「アイデンティティーの消失」だと受け取りました。



■後半
戦争が終わり、戻ってくる日常。でも日常も戦争と変わらない、という残酷な後半戦。
ただただ何度も病室を往復して、窓をチラッと見てはうなだれる。あの頃のハリーに言ったら信じてもらえないだろうと思うほどの面影のなさ。
あんなに堂々としていた人が、あんなにみっともなく「ジェシージェシー」と窓から叫び、あっけなく背中を向けられる。でも追いかける為のハリーの足はもう動かない。
何がつらいって、もちろん当事者であるハリーの姿もなんだけど、周りの視線が私には一番つらかった。可哀想に。仕方ない。優しくしてあげなきゃ。言葉の端々、表情の隅々に散らばってるのが凄くつらい。優馬くんもポストトークで周りの視線が痛いと言っていたらしいけど、今まで羨望の的で、誰もが一目置く英雄だった分、余計つらいだろうなと思う。こういう人って実は一番人の目を気にしていたりするから。それをみんな気づいているのか、ハリーが来ると場の空気が一瞬で張りつめてピリピリするのも見ていて痛々しかったな。なんとかハリーの気に障らないように、みんなが空気を読んで、落としどころを探ってるあの感じ。
でも、悪意ではないんだよなあ。むしろ善意の意味合いの方が強い。自分より弱い立場の人、社会的弱者に向ける「助けたい」という善意。誰もハリーをないがしろにしないのが逆につらい。分かりやすい悪役がいないのが逆につらい。誰も悪くない、強いて言えば戦争が悪い、ということをハリーも含め全員が自覚しているところがつらい。
そのくせハリーが弾けるかな…って心配しながらウクレレ弾き始めたのに、風船に気を取られて誰も聴かなくなるしさ!いや聴いてよ!!!!!!!って心の中で死ぬほど大声出したからね。
あのハリーのそばに駆け寄ってウクレレの音色と歌声聴きたい人、絶対客席にたくさんいるのに誰も寄り添えないのがすごくもどかしかった…
せめて聴いてからにしてよ…するなら最後まで優しくして…ってこっちが泣きそうになりながらハリーの歌を聴いた。それがもう讃美歌ですかってくらい優しくて甘い声だから余計気持ちの行き場がなかったよ…。
しかもポロンポロンて優しく穏やかに響くウクレレの音色が残酷な現実との対比すぎてアレは良くない。すごくつらくて心臓が痛かった。
でも最後のフォーラン夫人の「ハリーのウクレレの音色が一番好きだった」みたいなニュアンスの台詞(やっぱ一回じゃ覚えられない悔しい…)が、もう戻ってこない平和を憂うみたいな一言ですごくグッときた。それでも生きていかなければいけない現実の残酷さとか、そんな自分を肯定する狡さとか全部が詰まっていて最後に相応しいセリフだったな。

そうやって周りの人々が気を使って、なんとか「違う世界の人(ハリーとテディ)」と折り合いをつけて共存しようとする中、必死にもがいているのがハリーで。
銀杯に何度もワインを注がせたり、ジェシーとバーニーを執拗に追いかけたり、汚い言葉を並べて煽ったりと「頭がおかしくなった」と人から言われていたけど、私はすごく好きだった。
足の自由を失い、希望を絶たれ、何も無くなった絶望の中でも「生きてやる」っていうしぶとさがある。死に向かわない。ジェシーが必死にハリーを避け、バーニーと生きようとしているところに「俺を見ろ」とばかりに入り込み、バーニーの複雑な思いすらもひっくり返す。人々が戦争を忘れようとし、変わっていく自分に目をつむってダンスを続ける中「俺を忘れるな」と銀杯でワインを飲み干す。私はそれに安心すらした。良かった、まだ気力がある、心の底では誰よりも生きたいって願ってる人だ。って泣きそうになった。
きっとハリーはどれだけ絶望しても死ねない人だと思う。私にはそう映った。むしろ絶望の中で感じた、憎しみや苦しみ悲しさすべての感情をエネルギーに変えて、生きてやる、お前らの足にしがみついてでも生きてやるって生命力を燃やす人。
確かに卑しい部分もたくさんあるけど、それ以上に生きることに対してすごく高潔で、決して尊厳を失ってない人のように見えた。絶望の中にいるまま物語が終わるので、悲しく感じる人もいるのかもしれないけど、状況は絶望的でもハリー自身の気力をとても感じたので私には悲しい終わりではなかった。生きてる限り望みはある、って安っぽい言葉だけど結局まさにそれ。
だからハリーの人生をもっとみたいと思った。これから年齢を重ねるハリーはどんな人になるのだろう。どんなおじいちゃんになるのだろう。どうやって絶望から抜け出して、どうやって人を愛して、普通に生きていくことを受け入れられるようになるのだろう。色んな感情を経験し、人の知らない痛みを知っている、これからのハリーの人生は面白い気がしてならない。
あの無残に転がる銀杯を、いつか笑いながら孫に見せる穏やかなハリーが居ればいいなと思う。綺麗事でもいいから、それくらいは願っていたい。どうかこれから先の人生を、死ぬまでの余った時間にしないで欲しい。死をじっと待つ卑屈な人にならないで欲しい。戦場に置いてきた自分を探さないで欲しい。ハリーには幸せになって欲しいから、どうしてもたくさん願い事を言ってしまいます…。

そんなハリーからすべてを奪った戦争。いろんな角度、いろんな立場、いろんな視点から描かれたその行為の愚かさ。
でも、銀杯での戦争は、どれも間接的だった。
戦いそのものではなく、人形を介したり、戦争に翻弄された人々を描く。
これは個人的な話になりますが、私の出身地は日本で唯一の地上戦が起きた地でもあります。
祖父母が戦争体験者である私には、幼い頃から「戦争」に触れる機会が多くありました。学校でも戦争について学ぶ機会が設けられており、ずっと写真や映像で戦争に触れてきました。飛行機から雨のように落ちる爆弾、痩せ細った何十人もの人間が転がる畑、足を引きずりながら歩く兵士、土の上に寝そべり銃を構える兵士たち。ひとりで歩く小さな子ども。
私の知っている戦争は、全部モノクロの平面での世界の話でした。
現在の、海が綺麗で空が青い故郷とはまるで違う、白黒の激しい世界はいつも信じられなかった。
でも今回銀杯で、私は初めて違う角度から「戦争」を見た気がした。立体的に見た、とも言うのかな。
物体の破壊や、人の死だけが戦争だけじゃない。
命からがら生き残った人や、傷だらけの兵士を助けてきた人、家族の帰りを待ち続けた人、生き残っても大切なものを失った人、そうやって「命を繋いだ人」もまた戦争の被害者だった。
生き残った人には、生き続けるという戦争が待っている。
これもまた、死ぬのと同じくらい辛い。
誰のせいでもない現実をひたすら生きなければいけない。
いっそ死んだ方が、と思うんだろうなあ。
と、初めて自分に置き換えて人の気持ちを考えた気がした。それくらい戦争を身近に感じたのだ。
そしたら一気に私の中で戦争のリアリティーが増した。
間接的な描写で、戦争を身近に感じるなんて不思議な話だけど、これが森さんが現代に落とし込んだ「戦争」なんだなと思った。
戦争そのものの怖さは理解出来なくても、人が誰かを憎み妬み、傷つき、壊れていくことの怖さは私たちでも知っている。悲しいことに誰もが共感してしまう。
現代にも、戦争と同じ苦しみはある。イジメ、貧困、過労死、虐待、詐欺、犯罪、どれも絶えることは無い。
昔の話じゃない。おばあちゃんの話の中の出来事じゃない。
戦争は同じ人間が起こした愚かな行為、そして今も起こり続ける悲しい現実でもあり、小さな火種は現代でもずっと燻っている。
ダブリンでも、日本でも、それは変わらない。登場人物に共感したり、気持ちを理解できてしまうのが何よりの証拠だ。
人間同士が共に生きる限り、無くなることはないのかもしれないけど、やっぱりハリーやテディのように「違う世界で生きる人」が増えて欲しくない。スージージェシー、バーニーのように誰かや何かを諦めて生きて欲しくない。
私だって、誰も何も失わずに、健康に生きたい。
欲張りだけど、綺麗事だけど、そんなすべてが叶うといいなと思わずにはいられない時間でした。


いやあ、改めてすごい舞台だった…。うまく言葉に出来ないけど、舞台自体もカンパニーの皆様も、森さんも、劇場も、全員がきちんと挑戦した演目なんだなというのがひしひしと伝わってきて、その熱量に圧倒されました。それこそ北斗みたいな。難しい題材だけど、考えるより先に感情が働いて、大きな波となって襲ってくるみたいな、頭より心が動く作品だった。
こんな上質で重厚感のある舞台の主演を優馬くんが務めたこと、改めて誇らしいな、と。そりゃ北斗が連れてきてくれた仕事は、上質に決まってるんだけど、ちゃんと優馬くんの働きが評価されてそれに見合ったお仕事に繋がるんだなと実感できて嬉しかった。
本当に優馬くんのする仕事はどれも、深い理解力、役を掴む洞察力、辛さに耐える精神力、パワーを出し切る体力、すべてを一気に鍛える事しかない。
こんな作品に何度も出会うということは、優馬くんは運がいい。それに一気にいろんな力を鍛える場所を貰っているのは俳優・中山優馬にとっても最大の強みになっている。
そしてこの運と経験は絶対優馬くんをもっとすごい場所に連れて行ってくれる、そう思います。
だから本当にこの舞台を観て、もういよいよ怖いものなしだなと思いました。もうどこに連れていかれても大丈夫、そんな心強さを感じました。

しかも銀杯で優馬くんのお芝居やっぱり好きだなあって感じて、もっと見たい、こんな役も演じて欲しいって思ってたら、もう既に2本舞台が決まってるのもすごく気持ち良い。
優馬くんの今を見たら、絶対に次が楽しみになるから、お仕事が途切れずにあることは本当にありがたいことですね。
次はどんな景色を見せてくれるだろう、優馬くんはどんな景色を見るんだろう。
「未来はいつだって 新たなときめきと出会いの場 君の名前は希望と今知った」
久しぶりに大好きな君の名は希望を思い出しました。
次に優馬くんが連れて行ってくれる新しい場所も、きっと絶対に素敵だと思うので、楽しみだ。
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