君の名は希望

優馬くんの名前は希望と今 知った

あなたは何処でも行ける あなたは何にでもなれる

ミュージカル「にんじん」を観ました。
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物語は、
とあるフランスの片田舎にある、小さな村の家族のお話。
「ルピック家」は少し変わっている。
傲慢でヒステリックな母親と、家庭に無関心の父親
そして可愛がられて育った長女のエルネスティーヌと、甘やかされて育った長男のフェリックス、末っ子でひねくれたフランソワの5人家族。
でも、フランソワだけ少し違う。真っ赤な髪で、そばかすだらけの子ども。みんなから「にんじん」と呼ばれ、蔑まれている可哀想な子ども。
母親もにんじんにだけは厳しくし、辛く当たります。
フェリックスはそれを冷やかし、エルネスティーヌは同情するだけ、父親も見て見ぬ振りです。
普通なら、楽しいひと時である夕食の一家団欒も、どこかピリピリしていてまったく楽しそうではありません。
そんないびつな「ルピック家」のおはなし。

といった感じ。

でも実は、私は観ていてルピック家のことを理解できないとは思わなかった。
確かに「愛情」は他の家庭より欠落しているし、そのほんの少しの愛情もみんなそれぞれ表に出すのが下手くそだ。
ルピック夫人は自分に似ているにんじんのことを理解しながらも傷付けてしまうし、にんじんも人の嫌がる悪戯で気を引こうとしているし、エルネスティーヌも実はよく家族のことを見ているのに何も言わずに息をひそめているし、フェリックスは誰よりも人の気持ちに敏いから、自分より愛されているにんじんに不満をぶつけ発散しているし、ルピックさんだって愛したいと思っているのに戦争に負け名前だけを背負ったことを窮屈に思っているし、ひとりひとりに確かに「愛情」に対する気持ちが存在するのに、誰一人それを言葉にしたり行動に移したりしない。
きっと彼らにとっては、それは悲しいことで悲劇なのだろうけど、見ている側からするとそれは少し滑稽で、全然交差しない愛情にちょっと笑えたりする。
「普通に好きだよって言えばいいのに」「抱きしめればいいだけなのに」と、どうして簡単なことが出来ないんだ、何に悩んでいるんだって思えたりもする。
でも、家族ってこういうところあるよなと思った。
どんな家庭にも、こういう「歪み」だったりが存在するし「不器用さ」とか「弱さ」があると思う。
そういう家族の問題って、端からみると簡単なことだったり、笑い飛ばせることだったりするし、逆にものすごく重かったり、難しかったりもする。
本人達にしか苦しみや悲しみは分からないし、家族の数だけそれぞれの幸せや悲劇がある。
そしてそれは本人たち同士でしか分かり会えない、他人には理解できない不可侵のものでもある。
ただどこも同じなのは、「家族」って楽しくて幸せな空間だけじゃなくて、どこの家庭でも誰でも憂鬱で辛い時があるってことで。
そういう意味でもルピック家は、一見いびつだけど実はすごく普遍的な家族の姿を映し出しているような気がして、なんだか他人事のように思えませんでした。
それと、家族の在り方って本人達の問題だけではなく、時代だったり風習だったり、地域との繋がりからも形成されるものでもあるなと、敗戦国であるという精神的屈辱を背負っていることや、落ちぶれたルピック家と裏で言われてる事や、にんじんが自殺することを嫌がり世間体を気にする父親を見て思った。

また、子どもには罪はないよなあと改めて思いもしました。
きっと「ルピック家」のような家庭って割とよくあって、同じような家庭で育った子もいっぱいいるだろうと思う。
でもにんじん(子ども)にとっては、その家庭が「世界のすべて」で。そこから必要とされなければ「僕はいらない」「世界中でひとりぼっちの寂しい僕」だと思ってしまう。家族からの愛だけがすべてではないのに。アンリやマチルドからも愛されているのに。
子どもにとっては「僕だけ扱いが違う」という事実しか読み取れなくて、その奥にある愛情にまで幼い思考ではたどり着けない。
だからひねくれたり、意地汚くはしゃいでみたりする。
そしてこんな世界に嘆いて、バケツに顔を突っ込んだり、ロープに首をかけようとしたり…。
そんなにんじんを見てると、子どもの狭くて小さな世界は、大人が簡単に支配出来てしまうものなんだなあと思った。
そこがすごく残酷で現実的で、強欲な「大人」って嫌だなあと思った物語でもありました。
でもいつかきっと、もっと大きくなって世界が広がったらにんじんは気づく。僕と同じような子もいたんだ、あの時もひとりじゃなかったんだ、って。世界は意外とひとりぼっちになんてしないんだと。
はやくそういう時が来ればいいのになと思いました。
「昨日までの独りじゃない、自分で選んだ独りなんだ」と歌いながら寄宿舎に帰ったにんじんだったら、きっとすぐに気づくと思っています。

この物語はこうやって、子どもの目線で描かれた世界なのだろうと思うのですが、もしかしたら見る人の立場で全然印象が変わるのかもしれません。
私自身は20歳をやっと超えたばかりなのですが、やはりまだにんじんやフェリックスの気持ちが分かるし、同じ目線に立ってしまう時が多かったです。
でも歪んだ家庭に生まれ、意地悪されながらも、ひとりであることを乗り越えそして受け入れて強く歩き出したにんじんのことは、もしかしたらこどもの方がよっぽど大人より生きる力の備わった強い人なのかもしれないと羨ましく思う時もあって。きっと私はまだ大人になりきれてないんだなあと気付いたりもしました。

にしても原作は百年以上も昔のものなのに、鮮度がすごい。
今もこういう家庭がどこかに必ずあるし、同じ思いをしている子どもたちも必ずいて。
舞台になっている戦後間もないフランスから、国も時代も超えて今の日本の空虚さにビシビシ寄り添ってくるのが切なくもあり、めちゃくちゃ刺さるお話だったなあ。
なんだか、北斗くんを思い出してしまいました。

そんな北斗くんから、今度は傷付ける側にまわったフェリックスについても。
どうしても優馬くんが演じているから、愛しく感じてしまいます。
ルピック夫人じゃないけど、デロデロに甘い目で見てしまう。
でも。そうにしても、クッッッソしょーーーもない奴だったな(笑)
中身のない、空っぽのクズでした。
正直、初めのうちはあんまり好きじゃなかった。
厳密にいうと、クズのキャラクターがとかではなくて、優馬くんの演技があまり好みではありませんでした。
だってずっと浮いてたから。ひとりではしゃいで、空元気で。
上辺だけをなぞってるみたいな薄っぺらい演技で、好きじゃないというか、まったく入ってこない。温度を感じない。
たまにする、空っぽの冷めた眼や、片方の口角だけをあげて笑う馬鹿にした顔は少しだけひっかかったけど、それ以外はほとんどフワフワ浮いたまま、あまりフェリックスを掴めずにいました。
でも中盤のシーンで、にんじんのアゴを掴みながら「お前その自分だけ除け者でいじめられてるって面やめな。母さんはお前しか見てないんだから。」と睨んで吐き捨てたフェリックスに人間臭さを感じて、初めて地に足のついたフェリックスを見た気がしました。
そして畳みかけるように一番最後のシーン。ルピック家の全財産をもってパリへ行く!と決め「骨になるまで踊ってろ!二度と帰らない!このくそったれの村!!!!!!!」と叫んだフェリックスの大人びた、でも泣きそうな表情にハッとさせられた。
これが本当のフェリックスだったんだ。
ずっと、あの冷めた眼と呆れた顔したフェリックスが引っかかったのはそういうことだったんだ、と。
あの家の中でフェリックスは「こども」であることで自分を守り、「かわいい息子」になることで愛をもらおうと必死だったんだ、と。
だからにんじんがいじめられてるときに、あんなに冷めた眼をしていたんだと全てが繋がった気がした。
本当は僕も愛してくれと叫びたかったのかもしれない。
だけどこっちを向きもしないルピック夫人に呆れていたのかもしれない。
そう気づくと、とんでもなく愛おしくて。
今までのフェリックスの行動がひとつひとつ浮かんできた。
私はずっと、この母親がフェリックスをこんなにも甘やかし優しく育ててきたのは「自己満足」なんだろうなと思っていた。にんじんにひどいことをしている分フェリックスには母親らしいことをしている、それでバランスを保とうとしていたんだと思うし、そしてフェリックスも自分がかけた愛情の分を返してくれる、そういう満足感を得るための行為なんじゃないかなって。
きっとフェリックスも薄々気づいていたんじゃないかと思う。
だから最後「フェリックス!私のかわいいフェリックス!!!!ああ……!!!!」と叫ぶ母親を残して去ったのは、母親のエゴからの解放で、フェリックスが自由になったことの表れなんじゃないかと。
そしてどこか泣きそうな顔をしていたのは、自由になったと同時に手に入れた「自立」という現実に対する不安なんじゃないかと思いました。
最後の最後まで弱さを残していくのが、とっても世間知らずのおぼっちゃまという感じがしたなあ(苦笑)
こういうのぜんぶ考えていてやってるんだとしたら、優馬くんすごいなあってゾクリとした。
あまり大きな展開のない、些細な日常の中で進んでいく物語のなかでもフェリックスの小さな成長と、変化が見れて、すごく繊細に演じているなあと思いました。
あの浮ついたフェリックスと、最後の「くそったれの村!!!!」て吐いたフェリックスの対比が最高で、すごく気持ちよかった。
最後のフェリックスが一番人間らしくて、好きでした。
まあ、今までの育ち方見てるとパリでの生活も目に見えてるし、場所が変わっても大した変化はないのかもしれないけど笑、それでも自分の足で立って、家族から自立したのはフェリックスで、その大人への第一歩だけは、高揚感に満ちた瞬間だったなあと思うわけです。
だからどうかフェリックスに少しでも多くの幸運が訪れますように…!

そして結末についても。
あれだけ5人でルピック家での日々を繰返しながらも結局、嫁いでいったエルネスティーヌや、パリへ行くと家を出たフェリックス、そして自分で選んだ独りだと寄宿舎に帰ったにんじんも、家族から自立し始めていて、いつの日も初めに家族から自立するのは「こども」なんだろうなあと思いました。
もしかしたらあの家に残されたルピックさんとルピック夫人が、一番行き場がなくて閉塞してるかもしれない。
こどもにはこれから変われる膨大な時間があるし、果てしない未来があるけど、今まで変わらずここまで生きてきた大人には、孤独という現実が付きまとう。
実はひとりぼっちなのはルピックさんと夫人の方だった。
そんな、一種の哀愁も感じさせるラストだったなあと思います。

物語全体的には、大きな展開があるわけではなく、あくまでもルピック家で繰り返される日々の中での些細な出来事をメインに進んでいて、それがすごく「家族の物語」って感じがしました。
毎日大それたことのある家庭の方が珍しいし、大きく変わっていく家族もそんなに多くない。それがこの物語の些細な日常に表れ、そして大きな変化もなくそれぞれがバラバラになったルピック家に表れていたように思います。
さらに、きっと5人は根本的には変わらない、ずっと「ルピック家」という性質を持ったまま生きていく、そんな一種の呪いみたいなものも感じました。
良くも悪くも「家族」ってそういう縛りみたいなものだと思うんです。どこにいても離れていても、同じ呪いにかけられた集まり。私は物語の結末にそんな未来も感じました。

フェリックスは、今までの優馬くんの舞台の中で一番人間らしいかもしれない。
ドリアンや淳一先生のように華のある選ばれた人でもなければ、十兵衛のように重い宿命を背負っている人でもないし、セザールや悟のように壮大な運命を懸けている人でもない。
どこかの家にいる、ちょっとわがままで傍若無人な普通の男の子。
でも単純そうに見えて複雑なコンプレックスを抱えたとっても人間臭い、良い意味で親近感の沸く役だった。
また新しい優馬くんの演技を見れて面白かったです。
さっきあんなに真面目にフェリックスについて語ってたけど、見てる最中は、辟易してるみたいな冷めた目と、呆れた様に笑う表情が大好きなやつで、優馬くんの蔑んでいる演技最高だな……と思いながら見てました(急にド変態)
例えていうと、勝手に部屋に入った須賀ちゃんを押し倒してるときの成海くんです(みんな大好きなpieceだよ♡)あれも最高だったけど、フェリックスはもっとゾクゾクして最高だった…!ああいう顔もっと見たいです!!!!!
優馬くんは元のお顔がお美しいから、冷めた眼をしていても、
蔑んだ顔しても、片方だけ口角あげて笑っててもいやらしくないし、むしろゾクゾクするからぜっっっったい似合うよ!!!!
アネットに「他にいい働き口探してやるよ」ってバッキバキの眼で言ってるの本気で興奮した。
楽しそうにはしゃいでる顔から急にうんざりした、世界に辟易した顔になる瞬間なんてほんとにほんとに大好物で、目の周りに丸い跡が残るんじゃないかっていうくらい双眼鏡でその顔を焼き付けてた。
それくらい新しい優馬くんが見れて嬉しかったから、優馬くんの演技がもっともっと見たい、いろんな役を見てみたいと欲深く思った舞台でもありました。
だからはやく次の仕事ください(どさくさ)

最後に性癖さらしただけだとアレなので、松竹座を出て駅に向かってるときに聞こえた曲があまりにもフェリックスへ送る歌だったので、それを残して終わりにしようと思います。

あなたは 何処でも行ける
あなたは 何にでもなれる
ただ幸せが 一日でも多く 側にありますように
悲しみは 次の あなたへの 橋になりますように


星野 源 - Family Song 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】

ABKAI2017「石川五右衛門~外伝」

なんだかんだ、合間を縫って一公演だけ見に行くことが出来ました。
シアターコクーン
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優馬くんと海老蔵さんが剣を交えている姿は、まさに絶景でした。
こんな未来があるなんて、まさかなあと思いながら見てしまった。
ひとりで活動し始めて早3年が経とうとしているけど、これからどこへ行くんだろうと漠然と見守っていた頃からは想像できない現実で。
優馬くんの今までの色んな努力や経験が、きちんと舞台の上で生きているなあとひしひしと感じて、漠然としていたあの頃もひとつも無駄にしていないなと実感しました。
それくらい着実な未来に辿り着いているなという成果の表れた舞台だったんじゃないかなあ。

優馬くんも初めての歌舞伎だけど、私にとっても初めての歌舞伎。(むしろ優馬くんは一度ぴんとこなで触れているから、私の方が素人かもしれないけど笑)
とっても楽しかった!煌びやかで華やかでこれぞエンターテイメントという真髄を見せていただいたような気がしました!
決して優馬くんの出番は多くはなかったけど、海老蔵さん扮する五右衛門と対峙するというとっても見せ場の多い役を頂いていて、満足度は十分でした。
そして白塗りの優馬くんは見慣れなくて新鮮だったけど、白粉をしてもそのお顔の麗しさは健在で。特に横顔が本当に美!だった。
優馬くんって顔立ちがハッキリした「美しさ」だからあんまり儚くみえたりしないし、むしろ強気そうに見えたりすると思うんだけど、今回はその意志の強さがすごく十兵衛という役柄に合っていたなあと思いました。
あとこれはもう今しかない特権だと思うけど、若さからくる艶とハリたっぷりな美しさみたいなものが、十兵衛の青さとなって滲んでいて、今の優馬くんにぴったりだなあとも思いました。
そして役も少し優馬くんと重なるなあなんて。
真っ直ぐで純粋で、芯が強い青年。でも偉大な父の後を追っているはずなのに、自分の信念とのすれ違いに気付く。
そんな真っ直ぐに生きられない現実に、真摯にひたすらに向き合いながら、不器用に自分の我を通していく。
こういう時、優馬くんもきっとこうするんだろうなあと思いながら十兵衛に思いを馳せていました。
そんな十兵衛ゆうまくんに、五右衛門が掛ける「自由になる覚悟はできたか?」ってセリフがまたニクいんだよな~!!
自由に軽やかに飛び回る盗賊・五右衛門と違って、いろんな責任やしがらみを抱える跡取り息子・十兵衛。
きっと心のどこかでその軽やかさに憧れ羨む部分もあるんだろうけど、責任を果たしそして繋いでいく覚悟もまた、十兵衛が自由に選んだ道。
もっと楽に生きる方法もあるんだろうけど、それでも柳生の名を継ぐ覚悟と責任を背負って「お相手仕る!」と叫ぶ十兵衛をどうしても応援したくなるのです。
その十兵衛のバックボーンと優馬くんの人柄とを照らし合わせながら見るのもまた、楽しめた理由の一つでもありました。

そして一番これが大事だと思うんですけど、きちんとABKAIの世界観や初めての歌舞伎を楽しめたのは何にも不安要素がなかったからというのが大きかったです。
舞台に立つ優馬くんに対して、何一つ不安になったり緊張したりすることがなかった。ちゃんと歌舞伎の世界に馴染み、浮くこともなく十兵衛として生きていたから余計なストレスなく見ることが出来ました。
これって本当にすごいことで、短い中で優馬くんがたくさん努力し稽古した証なんだろうなと思いました。
そして同時に自分のソロコンで「余裕でやってるように見せなきゃ。お客さんを不安にさせるのが一番アカンから。」と言っていた優馬くんを思い出しました。
私、優馬くんがこの感覚を持っているって知れた時、すごくうれしかったんです。そしてすごく信頼した。
この人は余裕を作ってステージに立つ人なんだ、と。そしてそのための努力や、練習を惜しまないんだと。
今回もきちんとそれを体現していたなあと思います。だから安心して見れたし、絶対これからの優馬くんの肥やしになると確信できた。
所作や、セリフ、立ち回り、すべてにおいて歌舞伎の世界として見れたこと、すごく誇らしかったです。
何事も堅実にコツコツと積み上げて、ひとつひとつクリアしていく真面目な優馬くんに、きっと歌舞伎という硬派な世界が合っていたんだろうなと思いました。

あとはもう一つ楽しめた理由として、ジャニーズの世界観と似ていることが挙げられる気がしました。
とにかく派手で豪華で煌びやかなところも、頭で考える楽しさではなく、目で見て耳で聞いて感覚で感じて、アドレナリンがドバドバでる楽しさもすごく似ていた。
物語ももちろん大切なんですけど、なんか楽しい!なんかすごい!それだけの感情で楽しめる軽やかさも魅力としてあって、エンターテイメントだなと思いました。
優馬くんもきっとどこか知ってる、みたいな感覚絶対あったと思う(笑)そう考えると優馬くんが今までやってきた仕事とあまり変わりないのかもしれません。
まあ私が知ってる歌舞伎はABKAIだけなので、総じてそうなのかは分からないですけど(笑)
でも歌舞伎~入門編~としては本当にピッタリで、先入観としての「お堅い娯楽」というイメージを払拭できるだけでも相当意味のある試みだなあと、歌舞伎初心者は思いました。

それからやっぱり海老蔵さんがすごかった!スーパースター様、超かっこいい!!!!と思わずにはいられない圧倒的オーラが素敵でした。
仕草ひとつひとつに色気があるし、表情ひとつひとつに男気もあるし、立ち回りひとつひとつに繊細さもあるし、他にも見得を切るときの迫力も、ねぶたの上に立つ豪快な立ち姿も、本当にぜんぶ完璧なお方だった…!
こんなかっこいい方と優馬くんが背中を合わせ、剣を交えているという現実に何度震えたか。優馬くんにとって本当に貴重な経験だし、さらに私は今貴重な機会を目にしているんだと実感し、本当に幸せでした。

だからこそ、そんな海老蔵さんが「人生で一番泣いた日です」と綴る現実の非情さに胸がすごく痛んで。あんなに堂々と舞台に立つ人もひとりの人間で、大切な人を失う悲しみをこらえ舞台に立たなければいけないんだと、そしてあの堂々たる海老蔵さんを支えていたのはたったひとつの命だったんだと、あの海老蔵さんを見たからこそより一層我慢できない哀しみがありました。
そして海老蔵さんが一番大変だったのは、分かり切ったことだけど、きっと同じ舞台に立つ演者の皆様にとっても、いろんな葛藤と踏ん張りがあったんだと思います。
舞台に立ってくれるのは当たり前ではなく、色んなものを背負いながらも届けている人がいること、今回のことで身に染みて感じました。
何があっても舞台に立ち続け、いつもと変わらないものを届ける、そういう場所であり、そういう世界であることは時に非情ではありますが、役者側がその責任を果たそうとする以上、私たちはその人が舞台に立つ限りきちんと見届けることが唯一出来ることなんだと思います。
だからどうか。あれからもずっと舞台に立ち続ける海老蔵さんが、ずっとずっと多くの人が憧れる、スーパースターで在り続けますように。
本当にお疲れ様でした!
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ここからは、あまりABKAI自体には関係ないかな~と思ったけど、残しておきたいので追伸、的な感じで(笑)
今回のMyojoの海老蔵さんと優馬くんの対談でのことなんですけど、海老蔵さんのお言葉が印象に残っていて。
「まだ23歳で舞台をやっていくという姿勢はたいしたもの。やっぱりどうしても有名になりたいから連ドラとか、そっちのほうがいいんじゃないかと思いそうだけど、自分というものを見定めて、会社の方針も理解して、こういう現場にいるわけでしょ」
この言葉を聞いたときすごいなーと思って。そこまで背景を読める人なんだなって純粋にすごくびっくりして。そしてしっかり優馬くんを見てくれているんだなあと少し嬉しかったんです。
確かに優馬くんはあまりテレビに出演しないし、舞台の現場が圧倒的に多いけど、やっぱりちゃんと意図があったのだなあと腑に落ちたというか。
それが優馬くんの意思なのか、会社の方針なのかは分からないけど、どちらにせよ長いスパンで時間をかけて力をつけようとしているんだなと感じました。
だから今優馬くんがしてることって、長い目で見ると絶対無駄なことじゃないと思うし、絶対やってて良かったって思えることなんじゃないかな。いっぱい踏み込んだ人って上がる時にすごい力で飛べると思うから、その時のことを思うと純粋にすごく楽しみです。
その間は少し物足りなく感じたり、焦りを感じたりもするかもしれないけど、真面目な優馬くんならきっと報われるだろうなあと変に自信があります(笑)
そしていろんな力を蓄えてる最中の大事な時期に、このABKAIに出演出来たのだなと思うと感慨深い……。
デビューから今までずっと忙しなく駆け抜けてきた分、ソロ活動を始めてからのここ2、3年は割としっかり地に足つけて進んでるような気がするので、やっと優馬くんのペースで歩ける日が来てるんだなあと思います。
だからこのまましっかり進んでくれるといいなあ。
次の「にんじん」も楽しみにしています。

自担が退所を考えていた話

毎月第一金曜日に掲載されるスポーツ報知の連載に、優馬くんの番が回ってきた。
ジャニーズタレントを対象にしたインタビュー記事で、話題は主に優馬くんが出演する舞台「ABKAI2017」と「にんじん」のことについてだった。
優馬くんはこういうインタビューで、ファンが知らなかったことについてポロっと漏らす節がある。
今回も例に漏れずそれだったんですけど、いつもより印象的だったのでつい考え込んでしまったんですよね。

インタビューにはこう書いてあった。

俳優を目指すようになってからは、ジャニーズ事務所を退所しようと考えた事もあったという。
「今はもちろん事務所にすごく感謝していますけど、入る事務所を間違えたんじゃないかと思ったり。でも、そのとき家族に言われたんですけど「俳優の事務所に入っても、なかなか俳優業をするのは難しい。今の事務所にいれば、俳優になる道も近道としてあるんじゃないか」って。そうだなって思って、この事務所のまま俳優をやっていきたいと思うようになった。」

優馬くんはつくづく素直で誠実で、嘘のつけない人だなあと思った。自分を良く見せようと言う欲がないというか、あくまでも飾らない自然体な人で。
その素直さが時々痛々しく見えたり、胸がえぐられたりするんだけど、優馬くんが見えない時にはその素直さに安心する時もあって。
こういうことって今回だけじゃないんですよね。何回もあるし、毎回覚えている。そう思うと、優馬くんってずっと変わらないなって。
昔から素直で良くも悪くも嘘のつけない、アイドルには決して向いているとは言えない性格。最初はそう思っていたんだけど、素直であってもあの時そう思っていたんだって後から知ることが多くて、しかも事実として淡々と語るのが優馬くんのクセだと気付いた時、とてもプロだなとも思った。
優馬くんの場合いろいろ特殊だから言いたくても言えないこととかたくさんあると思うけど、ファンの知りたいっていう欲望をきちんと後からでも満たしてくれるし、自分の思いとして残してくれるからアイドルとして誠実な人だなと思う。
まあ素直すぎるから知らない方が良かったことも、知りたかったこともどちらも受け取れてしまうんだけど(笑)
でもそういう全部伝えちゃう不器用なところもすごく人間ぽくて好きだったりもする。

ただ今回のこのインタビュー記事は、正直自分でも知りたかったのか知りたくなかったのか分からない。
一番近いので言うと、知りたかったけど知るのが怖いから知りたくなかった、がたぶん正しい。
でも優馬くんが正直に話したからこの際ちゃんと自分でも考えてみようかなと思って。

私は、かれこれ小学生の時から優馬くんを応援している。
そして大学生になったいまもヲタクなわけだが、もはやここまで来ると生活の一部になっているし「ジャニヲタ」は私を構成するアイデンティティーのひとつとさえ思えてくる。
でも、優馬くんがソロ活動を始めて、俳優業に力を入れるようになってから何度も考えた事がある。
優馬くんにジャニーズ事務所という場所は合っているのだろうか。」……本当に何度も思った。
俳優がやりたいんだったらここじゃない場所がもっとあるんじゃないか、他だったら優馬くんのやりたいことがもっと出来るんじゃないかって、今の場所を窮屈に思うのだ。
その度に思いだすのは、優馬くんの言葉だった。ソロコンのオーラスで照れながら「ジャニーズ事務所に入って良かったと思っています」と言った言葉だ。
その言葉はきっと本心だったのだと思う。本当に恥ずかしそうにこっそり教えてくれた優馬くんが本当に愛しかったし、誇らしかった。
ちゃんと信じられる顔をしていた。心の底からそう思っている、そんな顔だった。きっと今も、そう思っている。
だから窮屈に思って、ここでいいんだろうかって心配する度に、あの時の顔を思い出してはあの優馬くんを否定したくないって思ってきた。
だけどほんの一瞬でも、優馬くんも退所について考えたことがある、それを知っただけで私は胸が痛くてしょうがなかった。
そうか。優馬くんも考えたことあるんだ。いつの話だろう。いつ、そんなことを思いながら仕事をしていたんだろう。
そうやって今までの優馬くんを思いだして、あの時だろうか、この時だろうか、いろいろ考えを巡らせてしまう。
だから知りたくなかったのかもしれない。だから怖かったのかもしれない。

そして、もし、本当にやめていたらどうだっただろうか、とも考えた。
優馬くんがジャニーズじゃなくなる。そうなったとき、私の中で何か変化は起きるだろうか。
答えはたぶんノーだ。何も変わらない。
ジャニーズだから優馬くんが好きなのか、そう考えるとはっきりしてくる。別にそうじゃない。
私はただ、中山優馬が好きだ。優馬くんが歌おうと、踊ろうと、お芝居しようと、どこの事務所にいようときっと同じだと思う。
私は優馬くんがジャニーズじゃなくても、きっと違うどこかで好きになっていたと思う。応援していたと思う。
ジャニーズも、アイドルも大好きだし、生活に潤いを与えているのは間違いなくジャニーズだけど、それはそれで。
好きになったきっかけもアイドルをしていた優馬くんだったけど、それでも。
あくまでも優馬くんの「ジャニーズ事務所所属」は、今の私にとって付属品でしかなくて。いろんなもの取っ払うと、ヲタクとして大切なのは優馬くんだけだ。
だからたぶんあの時、優馬くんが家族に相談する前に退所を決めていたとしても、私は変わらなかっただろうなと思う。
もちろんアイドルの優馬くんも大好きだし、歌って踊るアイドルという職業も大好きだ。だから惜しくなるし寂しいとも思うし、もったいないとも確実に思うけど、だけど結局いちばん好きなのは優馬くん自体なのだなあと、今回この記事を読んだときに思った。
アイドルが好きの前に、ただ単に優馬くんが好きという感情の方が先にくるようになった自分に気付いたときはちょっと不思議な気持ちだった。
アイドルとして見つけた優馬くんを好きになったはずなのに、ね。
そしてヲタクって意外と単純な感情で動いているんだなあと思わされた。
もちろんファンにもいろんなスタンスがあると思う。アイドルじゃなきゃ意味がないって人もいるだろうし、アイドルだから好きだっていう気持ちもすごく分かる。なんなら私もそのタイプだと思っていた。それくらい私にとって「アイドルであること」は大きい意味を持っていたし、アイドルに対して尊さだったり憧れを抱く気持ち自体が好きだった。アイドルってすごいんだって思わされる瞬間が好きだった。
でも私はいつの間にかそういうアイドルを応援する事の魅力を優馬くんで感じられなくなっても、好きで居続けられるようになっていたんだなと知った。
優馬くんが言ってくれて初めて気付いた。
今回この事に気付けたのは自分にとってすごく大きかったなあ……

それから、きっと「退所」ってすごくナイーブな話だと思うし、所属するタレントは誰もが一度は必ず頭をよぎるんだろうなと思う。
特にジュニアは切っても切れない話だと思うし、現に私も長いジャニヲタ生活のなかで何人もの子がステージを降りるのを見てきた。
本当に突然、辞めますも辞めましたもなくいなくなっている、この決断はその子自身にとってもその子のファンにとっても耐えがたい怖さだろうなと思う。
ただ優馬くんは入所して割とすぐ最前線に立たされ、あれよあれよとデビューしたから、ジュニアと言える期間は決して長くなかった。
だからきっと「退所」についてあまり考える時間もなかったんだろうなと思う。考える時間もないまま大人になって、気付けばジャニーズWESTもデビューし、ソロ活動をするようになってじっくり考える時間が出来て。その時初めてここで良かったんだろうかと立ち止まったんだとしたら、やるせないなあとも思う。
もうここまで来ちゃったら後に引けないってのも絶対あったと思うから。優馬くんがジュニアだったら、もしくはもうちょっとじっくり成長できる場があれば、もっと「退所」について柔軟に考えられたし、活躍できる場所は他にもきっとあるよって思えたのに。
でも今やジュニアだけの問題でもなくなって、デビューした未来が約束されていると思っていたタレントですら、辞めていくのが現実だ。
決して優馬くんだけに言えることじゃないし、優馬くんだけの問題でもない。それくらい誰にでもありえる話になっている。
ただデビュー組の場合はより「ジャニーズ」として芸能界で認識されることが多い点で、退所した後のことも慎重に考えなくてはいけないし、余計に退所は大きな問題だろうなと思う。
それでも退所を考えた優馬くんは、どれほど悩んだのだろう。どれほどいろいろ考えたのだろう。

それを思うと私はこの話を、そうだったんだ、と簡単に流せない。
たぶんずっと思い出すし、今はそうじゃないかなとずっと考えてしまう。
でもやっぱり知れて良かったと思う。そんな時もあったんだって怖くなったけど、知らない方がもっと怖かったと思うから。
何も知らないまま、もし退所していたら、と思うとゾッとする。
(まあ今回のは退所しなかったから言えた言葉でもあるとは思うんだけど)
それに知ったからこそ、いま優馬くんがジャニーズ事務所に所属していることの重さも知れた。
優馬くんが事務所に残って俳優をすることを決めたのであれば、私もその挑戦を応援したいし、優馬くんがこの先、この事務所だから出来たんだっていう仕事にたくさん出会えたらいいなと思う。
そうやって優馬くんと一緒にジャニーズ事務所にいる意味をいっぱい見つけていきたいなと思う。
そしていつかこんな素直で不器用で嘘のつけない人が、成功する世界を見てみたいなと思います。

連続ドラマW 「北斗-ある殺人者の回心-」

記事にするまでにずいぶん時間がかかってしまいました。
それくらい優馬くんのお仕事の中で、一番真剣に向き合った作品だったなあと思います。
こんな膨大な思いを受け取るドラマ初めてでした。
2016年の夏の優馬くんの全力が詰まっていた。
北斗として生きた優馬くん、本当にすごかった。
優馬くんに「俺のやりたいことはこれなんだ」って挑戦状叩きつけられたみたいな、生半可な気持ちじゃねえぞっていう覚悟を見せつけられたみたいな気がした。

私は大阪の試写会で見た北斗がいちばん最初だったのですが、しょっぱなから飛ばしてるなあと思わずにはいられなかった。そしてふたを開けてみれば最初だけでなく、最後まで容赦がなかった。
暴力や、殺人の描写なども一切妥協せずに、細かく描いていくスタンスが確かに今のドラマでは見ないなと思った。まるで映画のような濃厚さで、毎回一時間があっという間だった。
そして、何より絶妙な話数だなあと思った。
ドラマでいうと5話って決して長くないし、民放でいうとちょうど折り返し地点くらいだから、この分厚い原作を映像化するには足りないと思えるけど、これが絶妙にちょうどいいのが驚きだった。
限られた話数だからこそ無駄なシーンが一切なく、必要なシーンのみで構成されているので、最後まで緊張感の続くしっかりとした作品になっていた印象だった。
そして何よりこの話数に、ぎっしりと熱意が詰まっていたのがすごかった。監督の情熱とキャストスタッフがこれに全力で応えた掛け合いが、ちゃんと作品の熱として表れていた。本当に、画面からはみ出しそうなくらいの熱さに胸がチリチリと焼ける感覚だった。
同時に、これはWOWOWだから実現できたんだろうなとも思った。映画ではちょっと時間が足りないし、民放はこの熱量でできる場所ではないし、そう考えると適した場所だなあと思う。見てもらえる人は限られてくるだろうけど、でも見た人には確実に胸に刺さるクオリティーが出来たように思える。
そしてこの内容的にも、躊躇せず思いっきりできるのは今のテレビ業界ではWOWOWしかないんだと、だとしたらやはり特殊だし、唯一無二の場所だなあと納得できた。

ドラマの内容に対しては、原作に忠実だなと思った。
多少削っている描写だったり、登場人物もいるが、原作の満足度と差して変わらなかった。
キャストも本当に原作から出てきたみたいにピッタリで、私は特に綾子さんが大好きだった。
あの優しくて力強い声が、北斗くんって呼ぶ度に私まで嬉しくて、物語の中の唯一の光だった。
優馬くんが宮本さんの声が好きだって言ってた気持ちがすごく分かるし、「お母さん行かないで」って言っちゃう気持ちもすごく分かる。それくらいただ声を聞くだけで安心できる存在だった。
他にも、キャストそれぞれに存在感があったし、見どころがあって楽しめた。
優馬くんに関して言えば、正直言うと原作を最初に読んだとき、優馬くんのイメージはないなと思っていた。
全体的に薄い印象の、あまり雰囲気のない人。北斗くんにはそんな印象を持っていたので、優馬くんに合うのかなあと思っていたくらい。お顔も中性的で色白でどちかと言うと塩顔系の男の子ってイメージを思っていたし。
だけど、そういう次元じゃなかったなと後から申し訳なく思った。
優馬くんは合ってる合ってないじゃなくて、どれだけ自分のモノに出来るか向き合っていた。だからこそイメージは違くても、細かい描写や北斗くんがまとっている雰囲気がすごくリアルだった。
そこにリアリティーがあるから、他のイメージなんて勝手に付いてきた。もう今じゃ北斗くんは優馬くんの顔で思い出されるし、優馬くんの感情が読めなさそうな硬質な部分と、北斗くんの神経質で潔癖そうな部分がすごくマッチしていたなあと思えます。

物語の中で私が一番印象的だったのは、一話から二話への流れでした。一話での留置所の北斗くんはまったくと言っていいほど何も話さず、話したのはただ一言だけ「死刑にしてください。」のみ。感情の起伏と言えば「不幸な生い立ち」に触れられた時くらいで。そうやって一話は主人公の感情がまったく分からないまま終わっていく。そして二話からは徐々に情報も増えて行き、北斗くんがどんな子でどんなことを経験してきたのか、丁寧にゆっくりと描かれていく流れになっていた。私は、一話では「殺人を犯してしまった人」でしかなかった北斗くんの生い立ちを高井先生と辿っていき、どんどん人間らしい普通の人と変わらない北斗くんを知っていく流れがうまいなあと思った。二話で母に対して怒りをぶつけたり、綾子さんを試して泣いたりと、感情を露わにする北斗くんにすごく新鮮さを感じ、こんな表情するんだ、こうやって叫んだりするんだと驚いた。それくらい一話の北斗くんは静かで空っぽで。だからこそ二話での人間らしい北斗くんとの対比が大きくて面白いなと感じた。
また主人公はもちろん北斗くんだから、ほとんどが北斗くんの生い立ちや変化がメインで、途中まで見ているとどうしても北斗くんに肩入れしてしまう。不幸な偶然が重なっただけ、暴力の芽を植え付けたのは両親だ、とどうにか擁護したくなってしまう。だけど後半になり、裁判が始まるとハッとさせられるのだ。今までは北斗くん側から物語を追い、北斗くんが暴力の「被害者」のように見てきたが、まったく逆の物語も存在することに気付かされてしまう。北斗くんが奪った人生もまた存在していて、北斗くんは「加害者」なのだと気付いた瞬間、物語はとても複雑になる。北斗くんが奪った命を大切にしていた人たちがいる。北斗くんが綾子さんを大事にしていたように。
どうしようもないループに陥るところは原作と変わらないし、むしろ原作よりも密度が高く迫ってくるような気がした。

私には原作の結末は「希望」だと感じると、このブログに記した。
ドラマはまた少し違っていたように思う。
もっともっと人間の本質に迫ったような最終回だった気がしたからだ。

特に裁判が始まってからはそれがすごく顕著で。
1日目は、生きることを諦めたような人で、血が流れていないみたいな真っ白い顔をしている北斗くんが、日を追うごとに徐々に目に光を宿し始め、自分の中の感情に戸惑い苛つく姿が痛々しくて、でもこれは北斗くんが生きてる証なんだからと私も歯を食いしばって見守った。
そしてラストの意見陳述のシーン。
口に出していいのか、本当に言ってもいいのか、迷いながら高井先生を見つめた北斗くんの姿が印象的で。
何を言うのかと身構えたら、人間として当たり前の、ごく自然な「生きたい」という感情を、ポツポツと語り始めて。
「身体が生きようとするんです。」
「生きて罪を償いたい。」
北斗くんが嗚咽を噛み殺しながらもらした本音に、胸がギュッとなったと同時に「ああそうか、北斗くんはずっと生きたかったんだ」と思った。
だから家を飛び出した日も、自動販売機に縋ってしまったし、綾子さんが亡くなったあとも復讐のために生きたんだと腑に落ちた気がした。
「生まれて来なければよかった」「僕は悪魔の子だ」「事件を起こしてから死ぬことばかり考えていた」「死刑に値する人間だ」そうやって自分を否定し続け、存在価値を自ら排除してきた北斗くんだけど、心の奥底ではきっと誰よりも「生きたい」と望んでいたんだ。
そして、すべての人が持ってて当たり前の「生きたい」という願望を、今までずっと隠しながら生きてきたんだと気づいて、すごく悲しくなった。
北斗くんは「生きる」ことを権利だと知らずに生きてきたんだ。誰かに与えられるものだと思って、自分の意思で決められないと思って生きてきたんだ。
生きていることを後悔しながら生きてきたんだ。
それは、どれだけ苦しかっただろうか。
そんな北斗くんが、自分の命を賭けた裁判で初めて「生きたい」と口にした。
自分で「生きる」ことを選べた。
人間の本能的な、普通の人だったら持っていても気づかないくらい当たり前の単純な感情。
でも口にしたことで何かから解放されたような北斗くんの表情にはグッとくるものがありました。
そして今までタイトルバックが鮮明な赤だったのに、最終回だけ透明になっていたのもそういう意味があったのかなあと。
北斗くんが揺らぐことなく「生きたい」と自覚し変わったことで、「悪魔の血」という真っ赤な不純物が取り除かれて、ただただ透明な北斗くんの思いのほうが勝ったということの表れのような気がしました。
ドラマの方がそういう意味では明確なゴールを持っていたから、ズシンときたなあと思います。

そして最後は優馬くんについても。
この作品に優馬くんが主演として関われたことは、今後の優馬くんの俳優人生でも大きな強みになるだろうと確信しました。
演技が上手い下手とかの次元ではなく、端爪北斗として存在しようとしていた、本気で端爪北斗になろうとしていた。
一瞬でも中山優馬ではなくなっていた。
この経験はすごく大きなものになるだろうなあと。
これから演じる役にもぜんぶ、北斗くんは活きていくんだろうなあと思います。
最初の方にも言いましたが、演技が好きで、俳優をやりたいと常々言っている優馬くんの本気を見せられたような、彼の覚悟を感じました。
どんな俳優になっていくのか楽しみになったし、もっともっと色んな役と出会う優馬くんが見たいです。
WOWOWドラマがどれほどの人の目に止まっているかは分かりませんが、もしかしたらそんなに多くないかもしれないけど、見た人の中に優馬くんの印象が残って、次の仕事に繋がって欲しいなと強く思っています。
いや、絶対繋がる作品だと思っています。
だからこそ、また次優馬くんを映像作品で見るのがとても楽しみです。
優馬くんがまた次もこんな密度の高い作品に出会えますように。

愛しい私の『それいゆ』について。

初演から数ヶ月。
こんなにすぐ淳一先生に会えると思わなかった。
初演からたった数ヶ月。
こんなに濃密に変化すると思わなかった。
私にとって、すべてが予想外の「再演」でした。
初演を見た時から、ずっと胸の中にあり続けるだろうなと確信するほど、静かで、激烈な感情を覚えて。
再演でまた私は何を感じるだろうと、楽しみにしていたけど。
予想外で、予想以上でした。

再演で感じたのは「愛しさ」だった。
キャラクターに対しての、愛情だった。
ちょっとビックリした。
正直に言うと、初演ではまったくと言っていいほど淳一先生に共感ができなくて。
もちろん先生の生き方に感じるものはたくさんあったし、確かに「美しい」と思えた。
でも桜木さんじゃないけれど「私は先生とは違う」とも思っていた。
どちらかと言うと私も、桜木さんのように「求められたものを」というタイプだ。
だから初演の時は、少し理解するのに時間がかかったし、感情移入は、淳一先生の気持ちに寄り添うことは、最後まで出来なかったように思う。
だからこその尊敬でもあったし、天才だとも思えた。
それはそれで自分なりに間違いではないと思っているけど。
初演の淳一先生は私にとっては、やっぱりどこか「異質」な「変わった人」で。
私は淳一先生から離れていった、桜木さんや舞子ちゃん、山嵜編集長の方がよっぽど人間らしいと感じていた。
人並みに劣等感を感じて、世の中と折り合いをつけている人たちにどうしても人間味を感じていた。

そんな初演だったので、まさか再演で「愛しさ」を感じるなんて思ってなくて。
自分の中の感情に驚いた。
物語もキャラクターの設定も、大きく変わっているわけでもないのに。
「異質」で「変わった人」なことに変わりはないんだけど、前よりも圧倒的にチャーミングで、ひとが大好きでっていう人間味も感じたし、好きなものに対してまっすぐで純粋な無邪気さもあって。そしてなにより美しさだけを追い求める姿がグッと純度を増していて。
「変わった人だけど、可愛い人」っていう人物像がハッキリしていたのが印象的だったなあ。
淳一先生を形どる輪郭みたいなものが前よりも分かりやすかったような気がした。
だからこそ「可愛い人だなあ。愛しいなあ。」っていう感情に行き着いて、前よりずっと人間らしい淳一先生で、ああ私と一緒なんだ、淳一先生も人間なんだっていう「共感」にも繋がった。
そして普段は人当たりの良い、柔らかくて無邪気な印象を受けるからこそ、逆に孤独感だったり、ひとり深く堕ちていく闇が際立ってより淳一先生の葛藤や不安が浮き彫りになっていくコントラストも面白かった。
もちろん初演の淳一先生も素敵なんだけど、再演の淳一先生はもっともっと好きになれたなあ。
そしてそれは、優馬くんが初演を通して、淳一先生に対して愛情を深めたせいでもあるんだろうなあと思いました。
初演よりも圧倒的に淳一先生が馴染んでいたし、優馬くん自身が「中原淳一」に対して愛情と尊敬を持っているのが演技から伝わってきた。そしてその美しい淳一先生に近づくために、まさに淳一先生の言っていた「自身の生き方、魂を極限まで磨き上げて、純度を高めて挑む」を体現しているように感じた。
だから中原淳一という人の「容れ物」として、中山優馬はこんなにも適していたんだろうな。
優馬くんの演技、仕草、口調、視線ひとつひとつに丁寧さを感じて、まるで自分の中に存在する中原淳一を楽しんでいるように私には見えました。
それは淳一先生だけじゃなくて、他のキャラクターも同じで。みんな初演より輪郭がハッキリしていて「愛しさ」が増していました。
淳一先生の描く挿絵が何よりも大好きで、生きる希望で、それだけを頼りに生きていたのにストリッパーに成り下がってしまう舞子も、誰よりも歌が好きなのに、歌うことに臆病になり下を向いてばかりいる天沢も、淳一先生を誰よりも尊敬しそばで見守りながらも、先生と自分の価値観の違いに苦しむ桜木も、中原淳一を見出し自分が育てたことだけを過信しすがりつく山嵜編集長も、こだわりを捨て流行を真似て、淳一先生とは真逆の道をいく五味も、みんなみんな完璧じゃないからこそ魅力的で。
迷いながら、ぶつかりながら、うつむきながら、それでもまっすぐ前を向いて生きていく姿に誇らしささえ感じました。
きっとみんながみんな役のことを愛し、役と共に生きて、絆を育んできたんだろうなと思えるカンパニーで。
そしてみんな本当に「それいゆ」が愛しくてしょうがないんだろうなあ、と。
こんな愛に溢れた舞台を、生で体感できて、愛を受け取れて、観客である私も幸せでした。

そんな中でも、特に初演よりも純度を増しているなあと思ったシーンのことを残しておきたいと思います。
ひとつは、少女の友を降りた淳一先生に、少女の友に戻って挿絵を描いてよと舞子がすがるシーン。
ここだけじゃなくて全体的に日奈子ちゃん演じる舞子の純度が抜群だったんだけど、特にここは目立っていたなあ。
初演よりずっとずっと真っ直ぐで純粋だから、それゆえのわがままで独りよがりな思いも強くて。
ただただ淳一先生の画が大好きで、あの挿絵だけが希望で、なのにある日突然その希望すら奪われて、もう辛い現実しか残されていない悲しみでいっぱいで、その自分の悲しさをただただぶつけているみたいな盲目さも、幼さも、それすら愛しいなあ、美しいなあ、と思ってしまう。
舞子の真っ直ぐで純粋すぎる「わがまま」が、より一層淳一先生に憧れていて、淳一先生の描く挿絵が大好きなんだって伝わってきて胸がギュッとなったシーンでもありました。
日奈子ちゃん、見る度に毎回ポロッポロ泣いていたから、毎公演毎公演こんなに泣いてるのかなって思って、ああ本当に身を削って舞子として生きてるんだろうなって。
淳一先生も「舞子くん」って呼ぶ声が最後の方は荒くなって、なだめながらもどこか寂しそうな顔で舞子を見てるのが繊細で細かい演技だなあと思いながら見てました。

そしてもうひとつは、最後の淳一先生の独白のシーン。
「もう誰も美しさなんて求めない」と罵られ、自分の求めている理想を否定されて、もがき苦しみながら倒れたあと。
天沢さんに見つけられ目を覚ました淳一先生の錯乱した姿が痛々しくて苦しみが伝わってくるようですごかった……。
初演のときは、疲れたように静かに天沢さんに身を委ねるのが印象的だったけど。
今回は「僕は……この作品を完成できないまま消えていくのか……!」と叫びながらのたうち回る淳一先生で。
天沢さんに抱きしめられながら落ち着きを取り戻していく淳一先生が、なんとも脆くて危うい「人間」で、それがもうどうしようもないくらい愛しかった。
天沢さんに抱きしめられる淳一先生はどこか小さく見えて、あんなにキラキラした明るい人なのに、腕の中にいるのはこどもみたいにちっぽけなただの人間で。
すがりながら胸に埋まる淳一先生は、弱くて儚い普通の人間で。
初演よりももっともっと深みの増した、淳一先生の苦しみの表現が胸にグサッと刺さりました。
そして弱くて儚くて脆いのに、その姿はなによりも誰よりも美しく映って、ああこういうことなんだなって。
美しく生きるってこういうことなんだってスッと胸に降りてくるみたいな感覚も強くて。
表面だけの「美しさ」ではなくて、必死にもがいて、追いかけて、悩んで、戦って。そうやって一生懸命生きることなんだろうなって。
「美しい」って見た目の「姿や形」のことではなくて、そういう「生き方」なんだとこの淳一先生を見ていてありありと伝わってきました。
外見や外側ではない、内側からあふれる「美しさ」ってこんなにも眩しくて愛しくて切ないんだなあって知れた気がします。
そしてその「生き方」の純度が、もう本当にめちゃくちゃに高くて、不純物が一切なくて。こんなに必死なのに淳一先生はどこまでいっても「純白」で「清廉」で。
1度も染まらない、ずっと「真っ白」のまま。
信念を貫く「強さ」を他人にも求めてしまう傲慢さもあるけど、かといって他人を認めないわけではなく「こういう生き方もある」っていうことをきちんと理解していて、でもそれをこのままでいいのかと問いかけてしまうのは、純粋だからで。そんなたくさんの矛盾を抱えながら、いろんな感情と共生している淳一先生は強くて美しい人だなあと。
初演と変わらず、私が憧れている、淳一先生だなあ、と。
まあ、演じてるのが優馬くんだから、ただ単に見た目もすごく綺麗な淳一先生なんですけどね。でもそれと相まって、より一層内側から、その生き様からあふれる淳一先生の「美しさ」が際立っていたなあと思いました。言うなれば、美と美の相互作用みたいな。
ほんとうに美しかったなあ……。
「完璧な造形美」とは本当に「中原淳一」そのものだなあ、と。

そして初演の時からずっとずっと、心に残っているラストシーンのことも。
再演が決まったときからこの光景がもう一度見れるんだって楽しみにしていたんですけど、見た瞬間に焼き付けなきゃっていう猛烈な焦りに駆られて。
ああ私ずっとこの瞬間を待ってたんだなって思わずにはいられなかった。
あの美しい、完璧な造形美が最後ね、大輪のひまわりの海に囲まれるんですよ。
底抜けに明るい黄色のひまわりが舞台を埋め尽くしていて豪華だけど決して派手じゃなくて。むしろ素朴で柔らかい、まるで人間が生まれたときに初めて見る原風景みたいなあの景色が大好きで。
再演でのこのシーンも本当に美しかった。
……本当に美しかった。それしか言えない私の語彙力のなさを呪いたいくらいで、とにかく私の中ではこの世で一番美しい光景って言っても過言じゃないくらい。
少なくとも私の20年間の人生で見た景色の中では、一番美しいと言える。
このラストシーンのための物語なんじゃないかって、この優しくて温かいラストシーンのために淳一先生は苦しんでもがき続けたんじゃないかって思うくらい。
いっつもこのひまわりの海に佇む淳一先生を見ると、一瞬にして浄化されて、淳一先生の思いが報われた気がして。
美しく生きた淳一先生の物語の最後にふさわしい景色で、柔らかく射す光に向かって淳一先生が手を伸ばした瞬間にどうしても泣けてしまうんです。
個人的には今回かなり前の席のドセンで観劇する機会があったんですけど、その時のこのシーンの美しさったら。
目の前で淳一先生がひまわりに向かって歩いて、光の中に消えて行くから、本当に眩しくて。一瞬光で何も見えなくなったときに天国ってこんな感じかなと思わず川を渡りかけました。
いやでも割と大真面目に死ぬ前にみる景色はこの光景がいい、この光景を死ぬ前に見れたら幸せだ、と思っている(笑)


そして個人的な話のついでなんですけど、私は神戸公演のみの観劇でしたが、新神戸オリエンタル劇場もとっても素敵でした。
コンパクトで重厚感があって、落ち着いた雰囲気で。それいゆの世界に浸るにはぴったりの、そしてなによりオシャレな淳一先生にぴったりの劇場だった。
初日は中原先生の御命日ということもあり、美を表す数字「6」にちなんで6本のひまわりが来場者にプレゼントされたのですが、すごく素敵な心配りと美しく生命力にあふれたひまわりで心が洗われるようでした。
優馬座長がくじを引きながら、ワイワイしているそれいゆカンパニーが微笑ましくて、ツッコんだりボケたりそれに笑ったりと普段の様子が垣間見えたのも嬉しかったなあ。それいゆカンパニーに仲間入りしたみたいなくすぐったさがあって、劇場から出た後もフワフワしてしまいました。
そして千秋楽には盛大な拍手が送られていて、それを嬉しそうにそして誇らしそうに受け止める清々しいカンパニーの姿に胸がグッと熱くなったりして。
終わってしまう寂しさと、無事に乗り越えられた達成感と、この舞台への愛情と、様々な感情が舞台上に転がっていてこれまた愛しかったなあ。
いつのまにか淳一先生や優馬くんだけじゃなく、このカンパニーとこの「それいゆ」という舞台も愛していたんだなあと気付かされました。

あとは優馬くんが最後のあいさつで「この「それいゆ」という舞台が、皆様の心に大輪のひまわりとなって咲き続けますように。」と言っていて、それがあまりに美しい言葉で、優馬くんから出たとは思えなくて(失礼すぎるけどw)、すごくビックリして。
優馬くんってあんまり言葉数も多くないし、当たり障りのないこと言ってたりする印象だったんですけど笑、今回どの挨拶も本当に語彙力が豊かだし、とにかく美しい言葉ばかりで、これは絶対木村道場のおかげだよなあっていうのもぼんやり思っていました笑。
もちろん淳一先生として生きていく中で出会った言葉もあったんだろうけど、自分の思いや事実だったりを思っていることと同じくらい正確にアウトプットするようになっていたのは「どうしてこう動いた?」「なんでそう思った?」っていうのを木村道場を通して何度もやってきたからなんだろうなあと思って。
今回の再演に関してのインタビューでもそれいゆについて語る優馬くんの言葉がどれも本当に的確で、言葉や語彙力が自分の思いに追いついてきたみたいにスラスラ語っているのをみるとね、ずっと見てきている身としては「すごいです」「素敵な作品です」くらいしか言えなかった10代の可愛い優馬くんのこと思い出すのです…あれはあれで可愛かったから一抹の寂しさみたいなものある…。
まあね、優馬くんは多くは語らなくても身体で表現して、自分の存在で語ってきた人だったからそれに関して不満に思った事は一切ないんですけどね。
だけど今の優馬くんはそれにプラスして、ちゃんと自分の思いもしっかりとした言葉で語れるようになっていてもう「大人」だなあと思った再演でもありました。

今回優馬くんにとっても生まれて初めての再演で。そして応援する優馬担にとっても初めての再演。
すごくいろんな感情と出会えたんじゃないかなあと私は感じています。
特に初演の時には見えなかったものが見えたりして、気持ち的に余裕があったのは大きいことだったなあと思う。
だからこそカンパニー自体のすごさにも気付けたし、ひとまわりもふたまわりも成長したカンパニーをじっくり見れた気がした。
そして再演をして分かったのは、どちらも素敵だっていうことで。
優馬くんやキャストは、初演でも100%だったから再演はそれ以上を、よりよいものをって言っていたけれど。
私にとってはどちらも100%で十分だったな、と。超えるとか超えないとかではなく、初演は初演の、再演は再演の良さがあったから、良い意味で別物だと思っていたなあ。
ただ再演は純度がすごく高くて、初演よりも不純物がなくなっていたなあという印象はあって。でもそれは初演からずっとこのカンパニーがそれを追い求めていたからで、その追い求めていたものが再演でより追いついて昇華されたのかなあと感じました。
そして何より感じたのは、初演を経て再演に挑んだカンパニーの結束と、作品に対する大きな愛情で。
ずっと言ってるけど、大きな愛に包まれた素敵なカンパニーだなあと。
そんなみんなをまとめているのが優馬くんだと思うと、誇らしい気持ちにもなるし、嬉しくなる。そして何よりカンパニーみんながお互いを思いあっていて、その中にもちろん優馬くんも含まれていて、みんなから大切にされている優馬くんを見るのは本当に幸せだなあと思いました。
そして優馬くんもきっとそれに対してちゃんと返して大切にできる人なんだろうなって思うから、改めて素敵な作品とカンパニーに出逢えたんだなあと、優馬くんの強運に感謝しました。




最後に。
優馬くんが大千秋楽の最後のカーテンコールの挨拶で「上向いて、胸張って、前!」って言ってくれたこときっとこれから何度も思い出します。
「それいゆ」はずっと私の心の中の大輪のひまわりとして咲き続けるだろうなと思います。辛くなった時、苦しくなった時、思いだして太陽に向かって咲くひまわりに救われるんだと思います。そして淳一先生のことを思う時、それいゆの事を思い出すとき、優しく揺れるひまわりに落ち着くんだと思います。
そんなこれから先、どんなときも心にあり続けるであろう素敵な舞台でした。再演の「それいゆ」も最高でした。
ありがとうございました!
カンパニーの皆様がこれからもご活躍されますように!そしてまた違うどこかでも再会できますように!それゆけ、それいゆ!
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「北斗ーある殺人者の回心ー」のエピソードまとめ

WOWOWドラマ「北斗ーある殺人者の回心ー」の放送がいよいよ迫ってきました。
それに合わせて雑誌、テレビの露出等で語られた「北斗ーある殺人者の回心ー」についてのエピソード等をまとめました。
そうです、完全に自分用のメモです。
どこかに残しておこうと思ってたら、いいとこあるじゃん的なやつです。


ちなみにCINEMA SQUAREvol.87・90、J Movie Magazine Vol.17、TVLIFE6号、QLAP!3月号、eclat4月号、Ray4月号、BARFOUT!Vol258、WOWOWプログラムガイド3月号、FLIX4月号、その他アイドル誌、北斗いよいよスタート!、WOWOW10時間無料放送春先どり桜祭り、WOWOWぷらすと、完成披露試写会、中山優馬RADIOCATCHなどから引用しています。


原作「北斗-ある殺人者の回心」-について
◎若い女性編集者から「重くて暗くてずどーんとくる、剛速球のような作品が読みたい」と言われたのがきっかけで「北斗-ある殺人者の回心-」を書くことに。
◎物語の核は「普通の人が普通の人のまま人を殺すようになるのは、どのような条件がそろったときか」
◎原作の石田さんには何度か映画化の企画も届いていたが、暗くて重い題材のため頓挫していた。
◎最初は映像化してはいけないと思ったが、やっぱり誰かに取られたくないと思ってまずは映画化の話を持ちかけた。だが重くて暗い話だから無理だと断られていたし、ましてや民放ドラマでは数字が取れないと言われた。
◎4年ぐらい前にWOWOWでやりたいと瀧本監督が持ちかけたがそれも2回とも却下されている。しかし時間を置いているから忘れているだろうと昨年もう一度持ちかけ、実現に至った。


ドラマ「北斗-ある殺人者の回心-」について
◎読んだときに圧倒されて言葉が出なかった原作の小説をそのまま映像化したかったので、ドラマでも「うまく言葉に出来ないけど、何か大きい重いものが押し寄せてくる」っていう印象を持って見てもらえたら嬉しいと思っている監督。圧倒的に何かを感じる作品になっていると思う。
◎ある学者が「いろんな作品、メディアにおいて、これは自分のために作られたんだ、自分に向かって作られているんだと感じた人が1人でもいたら、それはもう芸術だ」といいう言葉を残しているが、北斗もそうあったらという想いを込めた瀧本監督。映画もドラマもいつもは広く、多くの人に届けようという思いで作っているが、今回はたったひとりに向けて、ひとりの誰かに向けて作った。たださすがにひとりだと寂しいので、そのたったひとりが、たった10人、たった100人、と伝わっていって欲しいと思っている。
◎すべてが思い通りとまではいかなかったけど、かなり理想に近いものが作れたし、自分の作品の中では今までで一番うまくいったものになったと感じている瀧本監督。
◎原作は時系列で物語が進んでいくが、ドラマ版は殺人を犯して拘置所にいるところから物語が始まり「どうして殺人を起こしてしまったのか」という回想から描いている。
◎さらには北斗の視点からの一人称だった物語に対し、ドラマ版は弁護士の視点などさまざまな視点からも描いている。それにより、一層多角的な見方ができ、原作とは別の視点がある物語になっている。
◎監督がドラマの脚本を作る中で一番考えたのは、1話から最後の法廷シーンまで高井弁護士の視点を並行して構成するということ。映画と同じ気分で作っていて、テレビドラマであるということは意識していなかった。
◎この作品の監督のイメージは2017年版の「青春の殺人者
◎ぜんぶフィルムでの撮影にしたのは、フィルムの暗さやトーンが味やコク、深みに繋がるし人間の内面を深く掘り下げていくこの作品に合っていると思ったから。また画面のざらつきみたいなものこそ「晴れの日も曇りにみえる」という北斗の見ていた世界を表現しているとも。さらには、フィルムだと10分程度しかもたないから、長回しは一回の失敗がすごく大きくなる。そのプレッシャーをキャストスタッフが共有することもこの作品のテーマに合っていると思った。またフィルムはコストもかかるので本番の演技がより大事になってくる緊張感も作品に表れていて、現代と逆行したものになっている。
◎ドラマと原作では最後の感じ方も違っている。石田さんはどの作品でも最後に希望を持たせる事が多く、性善説が強いけど、ドラマではそこの部分との違いを松尾さん演じる高井さんの姿で表現している。
◎「回心」というのはキリスト教の教えである意味の他にも、人生の中でいろいろなことが起こり、幸せになったり不幸になったりと心がぐるぐると回っていく、運動する、人生が続いていくという意味も込められているのではないかと思った瀧本監督。それに基づき物語が終わったあとも北斗や北斗に携わった人の人生は続いていくというのを5話のエンドロールで表現している。
◎実父役の村上淳さんと、里親役の宮本信子さんは当て書きで、最初から決まっていたキャスティングだった。
◎北斗の1話は苦しく触りは良くないかもしれないし、他の作品と違って、どこに向かうかも提示されていないのでちょっと大変かもしれない。だけど見続けていくとこんなところに連れていってくれるんだ、こうなるんだと思える面白さがある。特に5話がすごく良いのでそのために2、3、4話と見る価値がある。
◎原作の石田さんはドラマの北斗について、最近のドラマは軽いしコミカルなものが多いが、正座してテレビに向き合うような、豪速球のドラマをズドンと観たいような人にはぴったりだと思った。
◎原作者にとっての映像化作品は、自分のものではない。原作はあるが、映像作品はそれを作り上げた人たちのもの。だからこそ逆に、力の差が作品に明確に出る。それは原作者が関わっているかどうかは関係なく、映像化側の人たちの限界だと思っている石田さん。
◎北斗を続けて5時間見てみて、久しぶりに『池袋ウエストゲートパーク』の初回から観返したくなった。この作品は、自分が大人になったと感じ、そしてこれまでを振り返ってみたくなるような気持ちになった。


オーディションについて

◎まずオーディションを受ける前に呑み込んで欲しい条件が3つあった。
「撮影中は東映の(留置所みたいな)寮に住んでもらうこと」(※結果的にはやらなかった)「携帯を手放すこと」「撮影中に減量をすること」
それを受け入れる人のみ受けていいオーディションだった。
◎優馬くんは「いい作品があるから受けてみないか」と薦められ参加し、セリフの一部が書かれた紙1~2枚が送られてきた。
◎1度だけだったが、結局2度のオーディションを受けて、合格。オーディションでは緊張して、台本がはさまったバインダーを落としたが、落ち着いてすっごいゆっくり拾っていたのを見て度胸あるな~と思った瀧本監督。
(優馬くん的にはただ緊張して手元がおぼつかなかっただけらしい笑)
◎オーディション1回目はすごく優しかったのに、2回目の時は同じお芝居を2回した時点で「どうするもう一回する?やめる?」って瀧本監督に聞かれて「怖い」と思った優馬くん。思わず「もういっかいします……」って答えて3回目をした。
◎瀧本監督は見た瞬間にどうしても北斗をやりたいという意欲を優馬くんから感じた。
◎合格の知らせは、マネージャーさんがサラッと明日の仕事の予定を言う時に「北斗~決まりました。」とだけ言われた。一度「えっ!?」って確かめて「分かりました…」と受け入れた優馬くん。その時のブルブルっていう身震いみたいな感覚を今でも覚えているそう。
◎セリフのインパクトが強かったので、その前後を想像して分かった上でやりたかったが、経験がないのでどうしても分からなさが残った。でも監督には「セリフに破壊力があった」と言われ自分の中のそのもどかしさが伝わったのかなと思った優馬くん。



撮影エピソード

◎撮影は、順撮りで行っていた。撮影実収は45日間。
◎撮影中盤から「殺人を犯してからはガッと痩せろよ。10㎏やせるんでしょ?」と監督に言われ約3週間減量を実行し、12kg体重を落としている。(3日間何も食べずにランニングやサウナをして、4日目にスープを飲む。)
◎減量を開始したのはお母さん(宮本さん)が亡くなったシーンを撮った後。4~5日の撮休があって、それからの減量だった。
◎減量中はイメトレもしていた。頭の中で細胞がつぶれいていく感覚をイメージ。あと常にお腹を空かせて、空腹に慣れたらわざとご飯の匂いを嗅いで、欲望を復活させてまた動き出した頭の中の細胞をイメージでつぶしていく。
◎優馬くんにプレッシャーを与えるために瀧本監督も一緒に減量をした。
◎減量中のランニングで行列になってる定食屋さんを見て、撮影が終わったら行きたいと思って楽しみにしていた優馬くん。でも撮影が終わってその店をいくら探しても結局見つからなかった。(この話怖すぎる…)
◎減量や撮影について、監督に「長い人生の中で2カ月くらい、頑張れるでしょう」と言われた。確かにそうだし、この2カ月できないようじゃ、何もできないなと思った優馬くん。
◎北斗を演じるためなら死んでもいい。自分がぐちゃぐちゃになって壊れてもいいと思っていた。それでも限界までいかずに歩けるし、しゃべれるから「おかしいな、なかなかぶっ倒れへんな」って思ってた。
◎瀧本監督も撮影中は相当追い込まれていて「もう俺に味方はおらん。誰もおらんわ。唯一おるのは中山だけや。」と小さく言っていた。
◎現場では役や作品以外のことは一切考えないように遮断していたが、撮影の途中で減量が始まってからは自ら何かを遮断しようとする余裕もなくなった優馬くん。精神が研ぎ澄まされていく感覚で、音にも匂いにも敏感になっていた。
◎殺人を犯したシーンを撮った後に1週間弱の撮休があって、その時に「痩せて、ヒゲも伸ばしてきて」と監督に言われた。その後に警察に逮捕された留置所のシーンを撮影した。監督曰く1週間後に現れた優馬くんは、ちょっと違うオーラを乗せていた。
◎最後の2日間の法廷シーンでは原作の北斗も寝ていなかったため「法廷中はきっと眠れないよな?」と瀧本監督に言われ、眠らずに挑んだ。実際2日間で眠ったのは5分だけ。
◎ジャーナリストを演じた利重さんは、優馬くんを見ていて大変そうだったと感じた。現場セットでも大人しく静かに座ってたから、たまに話しかけたらニコッて笑ってくれた。台本にはいっぱい書き込みがあって、それも役とか演技のことではなく自分を励ます言葉がいっぱい書いてあって涙が出そうになった。
◎優馬くんが一番難しかったシーンは、初めて人に抱きしめられるシーン。監督にも「ここはどうやればいいか俺も分からないから、とりあえずやってみよう。」と言われた。
◎台本をかなり読み込んでいたが、現場に立つと思い描いていた感情と毎回違う感情が芽生えていた。そんなときは現場で生まれた感情を生かしていた優馬くん。
◎監督は勢いあまって優馬くんのことを「斗真!お前はここだ!」と間違えていた。ずっと「生田ー!」って叫んでましたよ(笑)な優馬くん。(北斗くんが殺そうとする相手が「生田」だから余計にややこしい笑)監督曰く「北斗」と本名の「優馬」が混ざったらしい(笑)
◎殺人を犯すシーンでの呼び間違いだったため緊迫していたが、撮り終わった後は監督の呼び間違いの指摘にドッと現場が沸いた(笑)
◎里親役の宮本さんとのシーンでは「等身大の素のお前のままでいいぞ」と優馬くんに伝えた監督。だから優馬くんもすごくリラックスしていて、本当に楽しかったんじゃないかと思った監督。この時だけはお酒も飲んでいいぞと解禁させた。
◎里親役の宮本さんとは待ち時間にも雑談をしたり世間話をしたりして、唯一安らいだ優馬くん。台本を読んでいてもやっと幸せな時間がくると思いながら楽しみにしていた。だから宮本さんがクランクアップを迎えたときは本当に悲しくて、いつもなら「仕事やから」と割り切れるけど今回ばかりは離れたくないと心から思った優馬くん。瀧本監督も、宮本さんが亡くなるシーンを撮ったその日は、彼自身もお葬式みたいな日だったと思った。
◎逆に父親役の村上淳さんとの撮影が終わった時は正直ホッとした。熱のこもったお芝居は北斗としては恐怖でしかなくて、すげー怖かった!な優馬くん。今まで味わったことのない感情が沸いてきたし、無力を感じた。
◎国選弁護人の高井を演じた松尾さんは接見室での撮影で優馬くんに「Coccoに似てるね?」「さかなクンにも似てるね?」と話しかけたが、ぜんぶ「そうっすか」とそっけなく返された(笑)
◎優馬くんが一番印象に残ってるのは、終盤の法廷のシーン。作品の中でも北斗がすべてを晒される場所で、実際に現場もたくさんの人がいて、扉を開けた時にすごく見られてるなという感覚があり、北斗が法廷で晒されている状況とリンクして、苦しかったのをすごく覚えている。
◎撮影最終日は、北斗が6分にわたって意見陳述をする法廷のシーン。終わった瞬間は達成感というよりも割とふわっとしていた優馬くん。ずっと見えないゴールを目指して突き進んでたから、終わった後もしばらく霧の中にいるようなフワッとした感覚だった。
◎しかし後日行われたポスター撮影で、癒されてしまうからという理由で実家に預けて離れて暮らしていた愛犬がサプライズ登場した際に、思わず泣いてしまった優馬くん。
◎それを見て「なんで今やねん!!(笑)」と思った瀧本監督。
◎この時瀧本監督にもサプライズで、美術スタッフが作った特製北斗パネルがプレゼントされた。
◎北斗の国選弁護人の高井役を演じた松尾スズキさんからは撮影終了後に「これで好きなものを食べるといい」と、高級焼き肉店のお食事券をプレゼントされた優馬くん。
◎撮影後は割と日常生活に追われてすぐに北斗から抜けられた。撮影中はテレビや携帯も遮断していたので連絡を返すのに追われたり、ちょうど引っ越し中だったので冷蔵庫を手配しなきゃと思ってた優馬くん(笑)タフすぎる…(笑)
◎優馬くんには完パケを渡していたので自宅で1度見ていたが、やっぱり大きいスクリーンでみたいということでキャストスタッフを集めて試写会をした。
◎そのときの優馬くんは、胸がいっぱい、感無量と言った感じで「北斗やってよかったね」「そうですね」と利重さんと会話を交わした。



端爪北斗について
◎すべてを捨てて演じなければと思った役だった。いつもなら現場を離れると自分にすぐ戻るが、北斗はあえてそれをせず私生活も遮断していた。それくらいしないと演じれないと思っていた優馬くん。
◎意思が強い方ではないから私生活から役のことを考えることで自分を追い込んだ。
◎ちょうど引っ越しをしたので、テレビも冷蔵庫も捨てて何も無い部屋にしていた優馬くん。
◎北斗をまったく自分とかけ離れた人間だとは思っていないし、演じていて異常だと思ったことも一度もない優馬くん。普通の人間だけど少し生い立ちが違うから歪んでしまっただけで、ただ愛されたかった青年だと思っている。人は、周りから愛を受けることで理性を保てているけど、それがなくなってしまったときに過ちを犯してしまうのかもしれない。
◎気持ちが分かると言うとヤバいのかもしれないけど、殺したいっていう感情は分かる。普通の人ならそこで殺したりしないんだけど、北斗は愛情が欠如している分、理性が働かなかったんだと思う。切ないけどこういう人がいることも、こういう事が起こる可能性があるっていうことも理解ができた。
◎北斗を演じてみて「愛がからっぽ」だと感じたことはなかった優馬くん。ちゃんと人を愛せる人間だったし、普通に笑える人間だったし、すごく満たされていた。そして自分の周りには愛が溢れいてるなと感じた優馬くん。
◎虐待を受けた人が虐待をしてしまうケースが多いことについても、理解が出来た優馬くん。小さい頃から虐待を受けていて、恐怖と羞恥心に押さえつけられているところから解放され、肉体的にも精神的にも力をつけた大人になると怒りとか衝動っていうのは抑えられないんだと思う。1人の男性として戦えるようになったときに感じるやりきれなさとかって、一つタガが外れた時にバーンと衝動として出ちゃう。それは演じていて分かる気がした。
◎北斗を演じてみて、心情を理解するのに苦労したというより、降りかかってくる出来事を感じてそこにいれば自然と理解できた気がした優馬くん。

◎15歳から21歳までの成長が描かれるので、優馬くんはそれを細かく計算して演じ分けているなと感じた瀧本監督。全話を通して見るとそれがよく分かる。
◎目の色でも芝居をしている、虐待を受けているときのおどおどした感じとか、里親と過ごしているときの生き生きとした目とかも魅力的だと思った。
◎1話と5話では全然顔つきも変わっていて、研ぎ澄まされていくのが分かる。




中山優馬について

◎彼にはまだまだいろんな顔があると思うし、まだ潜在するポテンシャルを引き出せていないから別の作品でもまた仕事したい瀧本監督。
◎原作の石田さんは、優馬くんにとって23歳という少年から青年に移り変わるこのタイミングでこの作品に出逢えたことはすごく大きいことだし、北斗を彼が演じたことはとても大きいんじゃないかと思った。
◎石田さんが優馬くんについて一番良いなと思ったのは、硬質感。それでいてとても立ち姿が綺麗だったから、人間としての質感が北斗にぴったりの役者さんじゃないかなと思った。圧倒的な憑依っぷりなので、自分で書いたものだけど、胸をギュッと締め付けられる感じで観た。
◎アイドルだと、男性や大人の方が偏見を持つこともあるかもしれないけどすごく有望で、力のある俳優さんだと思っている。素晴らしい若き才能を見つけてもらえるだろうと、石田さん。
◎石田さんが一番印象に残っているシーンは、北斗が最後にする意見陳述のシーンと、綾子さんに抱かれて笑ってる北斗くん。この二つの振り幅がすごくて優馬くんの存在感があったと感じた。
◎オーディションを2回をしたが、だいたい最初にわかる。「色々やってはもらうが(優馬くんが)会議室に入ってきた瞬間に「これだ」みたいな感じがあった。役者は目の力が大切だと思うが、優馬くんにはそれがあった。理屈じゃない、皆さんも多分わかると思う。この人でした。」と思った瀧本監督。
◎映画俳優は目が命だし、今回のこの作品は、タイトルになるくらい(インパクトが)強い主人公なので。目力がない子には務まらないと思って、目に力のある優馬くんを選んだ。
◎瀧本監督にとってジャニーズとのお仕事は生田斗真くん、山田涼介くんに続いて3人目だけど、ジャニーズの子はプライドと責任感がものすごくある。
◎優馬くんは芝居というよりも、佇まいがすごさを醸し出していると感じた緒方さん。ジャニーズの子は演技力が云々の前にまず、人の目に触れることや人前に立つことに関しての意識が高い。だから演技が上手い役者は他にもいるけど、追い込んだときの特別な佇まいや迫力みたいなものが違う。優馬くんは演技の上手い下手ではなくその迫力を持っていると感じた。
◎優馬くんはすごく愚直で、作品に対して正直でまっすぐで、あまり器用ではない。でもそこが優れた俳優だと思った瀧本監督。
WOWOWぷらすとのMC・西寺さんは、森田剛くんのような俳優として確立した人になれる人ではないかと思ったそう。アイドルとしてはタブーとされているような生々しい表情や、崩れた顔も出来るタイプ。
◎優馬くんはこれからグイグイくるんじゃないかと思っている瀧本監督…嬉しすぎて泣く…
◎撮影中の優馬くんは北斗くんと近かったけど、ラジオに出演した際に、明るくてテンションの高い一面を見てビックリした瀧本監督と松尾さん(笑)



その他のエピソード
◎瀧本監督が見ると死にそうになる映画1位だと思っているソ連の映画『炎628』を見ろと勧められて、家で見たらズーンって暗い気持ちになった優馬くん(笑)
◎「俺はどうでもいいんだ。とにかく中山が評価されて欲しい。」としきりに言っていた瀧本監督(泣)(泣)


今のところこれだけですが、あとからまた加筆・修正します。

「北斗‐ある殺人者の回心」を読んで

3月25日の初回放送に備えて、原作「北斗 ある殺人者の回心」を読んだ感想を残しておきます。

北斗 ある殺人者の回心 (集英社文庫)

北斗 ある殺人者の回心 (集英社文庫)

石田衣良さんは池袋ウエストゲートパークが好きで、 何度も読んだことがある作家さんでしたが、正直北斗のような題材は意外で、エッジの効いた鋭い感覚の作品しか読んだことのなかった私にとっては、まずそこから衝撃的でした。
エッジが効いたどころか、どちらかと言うと、淡々と凄惨な出来事を並べ、主人公の平坦な感情が語られていく…すごく意外だった。
こんなに静かで鈍くて、それでいて抉るほどに深い物語も書く方なんだなーと思いました。

作品自体の単純な感想を言うと、すごいリアルだなというのがいちばんで。
細かな描写から人物像まですべてにリアリティがあって、生々しくて。本当に北斗くんが存在するんじゃないかとか、ノンフィクションで実話を基にしているんじゃないかなんて思ってしまうほど。
現実にあっても違和感のない、現代の闇に深く切り込んだ物語だなあという印象でした。
だからこそより深く感情移入出来たのかもしれないし、とても苦しかったのかもしれない。
そして実際に起きていてもおかしくない事件だし、北斗くんみたいな人がいるんじゃないかと思えてしまう今のこの現代が怖いなと改めて思いました。
また決して物語として、2次元のことだから、あくまでもフィクションだから、と片付けるわけにはいかない、私たちが生きる世界でも目を向けるべき問題だなとも。他人事として読んではいけないのだと思わされました。

それから、とても不思議な感覚になる物語だなーとも思った。
出来事や虐待の描写は冷静に淡々と第三者目線で語られているのに、北斗くんが受けた痛みの感覚や心情は、客観性も交えながらもまるで体験したかのようにすごく細かく丁寧に描写されていて。
そのちぐはぐさがよりリアルで、読んでいる私は第三者なのかそれとも北斗くんなのか分からなくなる瞬間が何度もありました。
そしてその境目も良い意味で曖昧でぼやけているのがすべてのことに感情移入しやすくなっていて、北斗くん側に立って痛みを受けることも、第三者側に立って物事をみることも出来て、より深く世界観に入り込めたような気がしました。

具体的な話をすると、「端爪北斗」という人間の半生についてなのですごく膨大で。
全体を通してみると、ただ単に「虐待」だけを描いているのではなく、他にも殺人、里親制度、裁判、医療詐欺など様々なことが取り上げられていて、「虐待」だけが北斗くんの20年間じゃなかったことが分かる。
ただ北斗くんの人生を追うように時系列で物語が進んでいくので、虐待を受けている幼少期から思春期の入り口までが果てしなく長く感じるし、永遠に続いてこのまま北斗くんが死んじゃうんじゃないかと思えてすごく怖かった。
私でもそう思うのだから、北斗くんにとってはもっと長く感じたのだろうなと思う。しかも人格形成や発達においても重要な幼少期に、こんな思いをしながら過ごしたのだから、やっぱりとても罪の重いものだとも思った。
命の危険を感じながら過ごす幼少期とはどういうものなのだろうか。真冬の寒い時期に裸で外に出される気持ちは、空腹に耐えきれずにちょっと白米を食べた為に暴力を振るわれる気持ちは、秋の山道に置いていかれて1人で山を下る気持ちは、夜に凍死しようと決意して公園で一夜を明かした気持ちは、その時に暖をとった自動販売機の方が両親より温かいと感じる気持ちは、どういうものなのだろうか。
想像も出来ないけれど、ほぼ毎日のようにみる「児童虐待」や「虐待死」というニュースをご飯を食べながら見ている現実を思い出して、あの子たちも北斗くんのような思いをしているんだろうかと急に胸がザワザワとした。

中でも1番私が衝撃的だったのは、やっぱり至高が北斗くんにドライバーを向けるシーン。
読み進めていくうちに口の中の水分が奪われて、血管が膨張する感覚がした。
「私は親や世の中にいいように振り回された。だから、おまえに北斗と名付けたんだ。絶対に揺らぐことのない北の空の一番星。お前には誰よりも強くなって欲しかった。私がこの世界に残せるのはお前だけだ。」
狂ったように何度も何度も北斗くんの額にドライバーを抉らせながら、父・至高が叫ぶ。
「おまえが私のことを決して忘れないように、おまえの頭に星の印を刻んでやる。おまえは私の息子だ。北斗、忘れるな。」
これが息子に対する"愛情"なんだろうか。
至高にとっての愛の形なんだろうか。
だとしたら、 歪んでいる。
父に厳しく育てられ不幸だった自分と、自由で幸せそうな息子を比べて嫉妬する至高は子どものようで、至高を父に持った北斗くんの不幸は何も見えていないようだった。
ゾッとした。何も見えていない。北斗くんさえ見えていない。
見えてるのは不満や嫉妬といった自分の中の感情だけ。
親である前にあくまでも1人の人間。それはそうだけど、あまりにも自分本位の感情に私は絶句した。
そして親から子へ、また親から子へ、負は連鎖するんだと思い知った気がしていたたまれなかった。
こうして、北斗くんの額には星の印が残ることになる。
一方的で我儘な思いを背負わされ、一生消えない傷を背負う北斗くんを思うとたまらなかった。
その後も、この印を「呪い」としてこの男の血が流れている事を、壊れた男の息子であることを背負って生きていく北斗くんの姿は痛々しく、遺伝子を残したくないという北斗くんの思いが切なかった。

それから里親である綾子さんに出会い、初めて知った人に抱きしめられる温かさが彼を殺人犯にしてしまう。
こうして場面が法廷にうつり裁判のシーンになると、最初に様々なことが取り上げられていて「虐待」だけが北斗の20年間じゃない、とは言ったが決して「過去」ではないことに気付く。
「虐待の果てに、人を殺してしまった。」
こう言えば、結果としての「殺人犯」ばかりに目がいってしまうし、虐待はただの過去とされてしまうだろうし、重さとしては「殺人」の方に比重がいってしまうかもしれない。
でも最初から読んでいるからこそ分かる。
どれだけ「虐待」が重いことか。
北斗くんが虐待を受けたのは、思春期までだとしても、それまでの記憶や経験は確実に北斗くんを形成し、北斗くんの人生に影響している。
現に裁判では、北斗くんを苦しめた「虐待」が極刑を免れる「切り札」になるのだ。
1人の命を左右する、重要なファクターになる。
「過去」が20歳の北斗くんの命を繋ぐのだ。
皮肉だけど、それがどれだけ「虐待」が重いことかを、一生消えない傷なのかを、物語っているような気がして、胸が切り刻まれる思いだった。
こうして物語の中に医療詐欺や、死刑制度、裁判、殺人、様々なトピックがあるからこそ、その根源となる「虐待」という問題が浮き彫りになるなあと感じました。

そして最後まで読んだ時、私は一切ブレずにひとつだけを描いているような気がしてならなかった。裁判や死刑制度、殺人といった物語を動かす出来事がすべて「虐待」の重さを伝えるのための手段だと感じた。
石田衣良さんがこれらを「虐待」と並べたのは、殺人も、虐待も、同じ重さを持つということで。
「虐待」も形を変えた「殺人」なのかもしれない、と思った。
そんな一度死んでしまった北斗くんが、生きることを許された。
私は、この最後の結末は「希望」だと思っている。
北斗くんのような「被虐待児」という特性を持っていても、社会で生きていける、人間として生きる価値のある存在なんだということの証明。
北斗くんがそう感じ取ってくれたらいい、僕は生きていい人間なんだと思ってくれるといいなと、そんなことを考えた。

だから少なくとも私は、この結末に救われました。
だけど一方で。
2人の命を引き換えに受け取る「希望」ってなんだ。
虐待を受けたことが人を殺しても罪を軽くする理由になるのか。
遺族からしたらこれは「希望」なのか。
そう思う自分もいて。
さっきまで虐待の重さについて考えていたのに、人の命の重さを考えるとすぐに天秤が傾いてしまう。
人を殺すという非人道的行為の前では、虐待を軽んじてしまい、自分の気持ちがどこにあるのか一瞬で分からなくなる。
結局何が良いのか、この結末が正解なのかは最後までわからなかった。
だからこそ、石田衣良さんがひとつの物語としてこの結末を選んだことがすごいと思った。
万人の思う「正解」なんてきっとないはずなのに、きちんと結末として判決を下した。
当たり前だけど、どちらかを選ぶということは、どちらかを選ばないということで。
それは残酷なことでもあって。自分の言葉ひとつで誰かが救われて、誰かが絶望するかもしれない大変さを想像すると、私だったら投げ出すだろうなと思う。

石田衣良さんは物語をああやって締めくくったけど、きっとすべての人が幸せになる正解なんてないし、世の中のすべての事に白黒つけられるわけじゃない。
誰かにとっての「正解」は誰かにとっては「不正解」だし、誰かにとっての「幸福」は誰かにとっては「不幸」だ。きっと世界はそういうものだし、みんなそれを分かっている。
北斗くんも言っていたように神様なんていないし、法律だって人間が作りあげたものだ。
それでも、だからこそ、この「法律」という観点を通して「答え」を導き出すという過程が社会にとってはなにより重要で、そしてそれをきちんと「正解」にしていくのが北斗くんの役目であり、これからの生きる意味なんだと思う。
そして、北斗くんならそれが出来ると導き出されたんだと思っています。
「北斗 ある殺人者の回心」
このタイトルにその思いが込められている気がしました。
この「回心」という言葉が不思議で、どうしても「改心」という言葉の方が聞き馴染みがあると思っていて。
気になって調べてみると、キリスト教の教えでは「回心」とは心の向きを180度変えること。回心した心は二度と濁ることはないとされているそうです。
一方で「改心」とは心を入れ替えること。改心し新しいものに入れ替えても、しばらくすれば濁ってしまう。汚くなるたびに入れ替えて入れ替えて一生繰り返さなければいけないもの、だそうです。
私はこれに辿り着いたとき、石田衣良さんが「回心」に込めた思いをすごく考えてしまいました。
北斗くんは、回心して生きられる人だと。
奪った命について考え、背負い、罪と共に生きていく人だと。
この判決を「正解」に出来る人だと。
そう思ったんじゃないでしょうか。
そう考えると、やっぱりあの結末は北斗くんに託された「希望」なんだと私は思います。








優馬くんも、私にとっては「希望」です。
そんな優馬くんが北斗くんと出会ったことは、必然かもしれません。
原作者が苦しかったという作品を、映像化するということがどれほど大変か。
そして読むだけでも胸が痛い作品を、映像としてきちんと見ることが出来るのか。
想像するだけで、気が遠くなるけど。
私の「希望」は、きっと北斗くんも「希望」に導いてくれると思っています。
優馬くんがもう死んでもいいと思いながら、息を吹き込んだ端爪北斗くんが今から楽しみです。
そして同じ覚悟でこのドラマを見て、見終わったときに自分の見えている世界がどうなっているか。
それもとても楽しみ。
とにかくこの春は、何かが大きく変わる、そんな気がします。
今はその春を、じっと待ちます。