君の名は希望

優馬くんの名前は希望と今 知った

美しさは世界を変えられる。〜それいゆを観劇して〜

舞台の内容については、1幕と2幕に分けてびっくりするほど長い記事を書いたので、今回は私の感想と、この舞台について。まとめです。

 
……何から書けばいいのだろう。
とにかく、伝えたいことが明確でメッセージ性の強い、確かなコンセプトのある舞台だった。
かといって、小難しいわけでも、ごちゃごちゃしてるわけでもない、とてもシンプルで単純なストーリーだった。
「美しく生きるとはなにか」
ただひとつ、それだけに焦点をあて、
それだけとひたすら向き合い続ける2時間半だった。
見終わったあとは、柔らかな温かい光に包まれているような優しい気持ちになれた。
本当にとっても満たされた気持ちでいっぱいになるのだ。
だけど、物語をただ受け取るだけではなく、自分のこととして考えてみるとハッとする。
 
果たして自分は「美しく」生きているだろうか。
淳一先生の言うように生きれているのだろうか。
他人の価値観を、あたかも自分の価値観だと錯覚し、知らない間に流されていないだろうか。
他人がいいねと言ったものを、受動的に受け取っていないだろうか。
努力を惜しまず、精一杯汗かいて何かをしたことがあっただろうか。
淳一先生のように、何かに対して強い信念をもってこだわったことがあっただろうか。
この問いに、私は自信を持って「はい」と答えることはできない。
ちゃんとした確固たる「自分」を持っていることに対して、私は自信が無い。
他人の意見に倣って流される方が楽だ。皆がいいと言うものをいいと言った方が生きやすい。多数派に属して、少数派(異物)と見なされるのを避けた方が目立たない。
何かと割り切った方が辛くない。手を伸ばしても届かないものには初めから手をつけない。
そんな合理的で都合の良いことばかり考えて、自分を殺すことを何度もしてきた。
学校や、社会という集団の中で「自分」というものを晒すのはとても勇気がいる。理解してくれなかったらという怖さと、本当にこれが正解なのかという不安のせめぎあいで、いつしか自分の中だけで押しとどめてしまう。
私はそんな性格だ。
そんな自分が嫌になることは何度もある。
何度も何度もこんな自分を捨ててしまいたくなるときがある。
だからいつも、だからいつも。
私は優馬くんが羨ましかった。
いつでもまっすぐ前を向いて、自分の意思で自分の道を選べる、あの優しさと強さが、いつも眩しかった。
ああ、こんな人になれたら、私もこう生きれたらいいのになあ、そう思っていた。
だから私にとって、中原淳一さんは、
優馬くんそのものだ。
舞子にとって淳一先生が憧れであったように、私も優馬くんに憧れている。
 
だからだろうか。淳一先生の言葉が、優馬くんを通して伝わってくると、どうしようもなく泣きそうになるのだ。
面と向かって「あなたは美しく生きていますか?」と問いかけられると、私は下を向かなければならない。
優馬くんが好きなのに、優馬くんの顔を見ることができない。
それは恥ずかしさからなのか、情けなさからなのか。
…………たぶんどっちもだ。
こんな自分が恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて、痛くて、どうしようもなくなる。
初日、初めてこの物語を見終わったとき、私は感動の涙と、悔しさからの涙で感情がぐちゃぐちゃだった。
あまりにも優馬くんが中原淳一さんそのものだったから。
まるで本当に淳一先生が生きているかのように舞台上で動き回って、現代に淳一先生が蘇ったかのように言葉をつむいでいたから。
優馬くんの中に、淳一先生が生きていて、優馬くんの身体を借りて今この瞬間、淳一先生が問いかけている、そんな気持ちになった。
きっとそれは、優馬くんも美しく生きているからで。淳一先生が優馬くんの身体に宿ることを許したのは、きっと優馬くん自身も美しく生きているからで。
淳一先生は、優馬くんを認めたのではないだろうか。
そう思えてしょうがなかった。
それくらい優馬くんは、淳一先生として誰よりも美しく生きていた。
それがどうしようもなく誇らしくて、嬉しいのに。また憧れてしまった、そんな気持ちになった。
優馬くんみたいになりたいと思っているのに、優馬くんはどんどん素敵になっていく。まだ全然追いついてないのに。
これがどういう感情なのかよく分からないけれど、今回の舞台でより一層この感情は強くなった。
近い言葉でいえば「憧れ」や「尊敬」といった類のものだろうけど、それよりももっともっと単純で、難しい。きっと言葉にできない感情。
たぶん、この感情にぶつかる度に、私は「美しく生きなければ」と思うのだろう。
優馬くんのように。淳一先生のように。
 
自分の中の美しさを追い求めてみる。
自分の人生を、よりよく形づくるために。
そしてまた鮮やかに彩るために。
そのためにまず私は、「自分とは何か」それを考えるところから始めてみようと思う。
私にしか出来ないこと、私だから出来ること、私を象徴するもの、私といえばこれだと言えるもの。それを探すところから。
私を彩っている色を、かたどっている形を、まずは理解するところから。
これが自分だと、私の信念はこれだと誰かに伝えられる、そんな確固たる自分を持てるように。
淳一先生に恥ずかしくない自分になれるように。
人からしてみたらちっぽけな、些細なことかもしれないけれど。今まで「自分」をないがしろにしてきた分、まずはここから始めてみよう。
 
私は、この舞台を見て、自分自身のことや、生き方について深く考えたけど。
いろんな感じ方があると思う。それこそ見た人の数だけの、感じ方があって心への響き方がある。
どう受け取るかはその人だけのものだし、何を持って帰るかは自由だ。
私にとってのこの舞台は、「道標」になった。
これからどう生きていくか。
そんな未来を照らす光になった。
 
こんな舞台に出会えたのは、紛れもなく優馬くんのおかげで。
優馬くんが中原淳一さんと出会ってくれたおかげで。
なんて運命的なんだろう。
優馬くんの舞台はいつも、とても彼に似合う。優馬くんが努力した結果なのだから、当たり前だといえば当たり前なのかもしれないけど、ドリアンも淳一先生も優馬くんのためにあったんじゃないかと思うほどだ。
優馬くんが努力して寄せていってるのもあるが、きっと運命もあるんじゃないかと割と本気で思っている。
優馬くんが演じるべき人だった。優馬くんが出会うべき人だった。
優馬くんが演じたからこそ、あの説得力だった。
私はそう思っている。
美しく生きた人を演じるのは、身も心も美しい優馬くんだから出来たことだ。
応援している故の盲目だろうがなんだろうが、私はこの運命を信じている。
優馬くんにはそんな運命を手繰り寄せる力があると思っている。
だから、今回も、優馬くんが素敵な役に出会えたことに感謝しています。
 
それともうひとつ。このカンパニーにも。
今回はSNSを利用してるキャストやスタッフさんが多くて、それいゆの状況を知る機会がとても多かった。
大変そうだし、毎日悩んで、役と向き合っているんだろうなと思ったけど、それ以上に笑いの絶えない和気あいあいとした現場なんだなと思った。
ドリアンカンパニーが素敵だったから。
今回は大丈夫かなあと心配していたけど。
いらない心配だったなあと今は笑い話です。
本当にいつも思うけど、優馬くんの周りは温かい人たちばかりだなあと嬉しくなる。
ドリアンから一緒だった、山崎さんが「カンパニーが仲良くなるのはそんなに多くない。10回に1回くらい。だけどドリアンもそれいゆの現場もみんな仲良いのは、座長(優馬くん)の人柄だと思う。」と言ってくれた。この前のドリアンでもすんらさんが「何十年もやってるけどこんなに仲良いカンパニーはないよ。座長がいいんだろうね。」と言ってくれたし、JONTEさんが「出会えたこと、出会わせくれたことにありがとうです」なんて素敵な言葉もかけてくれて、なんか本当に優馬くんの力もあるんだろうけど、このカンパニーの皆さんなんだよなあと強く思う。
本当に優馬くんは周りの人に恵まれる強運の持ち主だ。
今回も強い引きだった。
優しくて、温かくて、穏やかな陽だまりのような空間の中心に優馬くんがいて、いつだって座長である優馬くんを立ててくれる方々に囲まれて。優馬くんも優馬くんでひとりひとりときちんと触れ合い、話しかけていて。
本当に本当に出会いの運に恵まれた人だなあと思った。
それになにより、優馬くん自身も千秋楽で「自分という人間はこういう出会いで形成されているなとつくづく思います。」と挨拶をしたというのを聞いて、ああちゃんと本人もこれがすごいことだって自覚しているんだなと嬉しくなりました。
 
そして、2回目の座長。ドリアングレイの時は初めての座長で、カンパニーの最年少で、優しく見守って支えてもらったような感覚が強かったけど、今回は少し余裕を感じさせるくらいどっしりとしていて、なんだか本当に座長なんだなあとしみじみ噛みしめるくらいにしっかりしていました。
特にこの舞台で女優デビューを飾った、桜井日奈子ちゃんを見る目がただのお兄ちゃんで、今までずっと日奈子ちゃんの位置にいたのは優馬くんだったのに、もうこんなに大人になったんだなーとすごく思った。優馬くんをはじめ、とにかくカンパニーみんなで日奈子ちゃんを支えようって思いがありありと伝わってきて、たどたどしく話す日奈子ちゃんをみんなで見つめてうんうんって頷いてるのを見て、心がじんわりとするような、幸せなカンパニーでした。きっと優馬くんも日奈子ちゃんを見て、自分もこうやって支えられていたんだなと改めて気付くのだろうなと思うと、すごく感慨深いものがあります。
 
最後に。
この舞台をこの目で見たこと。美しい人たちの生き方を焼き付けたこと。
きっと一生忘れられないし、これからの人生で何かあるたびに、中原淳一さんの生き方を、言葉を、思い出すことでしょう。
そんな素敵な思い出を、素敵な物語をありがとうございました、そうこの舞台に関わったすべての皆さんに言いたいです。
始まりがあれば、終わりがある。それいゆはこれにて終演ですが、キャストの皆さんはまだまだ美しく生き続ける。
だから、またいつかどこかで、再会できる日を夢見て。
それまで、「上向いて、胸張って、前。」へ。
本当に本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

舞台「それいゆ」第2幕

2幕からは、時代が戦後に変わります。人々の様相もガラッと変わり、もんぺや国民服のような色身のない服ではなく、色とりどりのいろんな洋服に身を包んだ人で溢れる世の中になりました。それでも淳一は戦中も戦後も変わらず、真っ白い服に身を包んでいた。1幕よりは浮かなくなった淳一の服装だが、果たしてこの時代は淳一に適応していたのだろうか。

 

  • ミュージカルプレイへの挑戦

終戦間際に徴兵され帰ってきた淳一は、戦後も女性が美しく生きるための方法を提案し続けていた。戦中よりなお一層の情熱を持って、焼け野原を生き抜く女性に希望を与え続けていた。他にスタッフも増えたが、変わらずずっとそばにいたのは桜木だった。そして、天沢も。

天沢は歌の仕事を成功させ、人気歌手になっていた。そんな天沢と共に淳一は日本初のミュージカルプレイに挑戦したいと言い始める。桜木は「そんなものはお金持ちの道楽でしかない」と大反対するが、天沢は長野から帰ってきていた舞子も誘おうと淳一に持ちかけていた。そして2人は舞子が立っていると聞いたステージに向かう。

 

  • ストリップ小屋

舞子が立っていたステージとは、薄暗い部屋に似合わないほどのいたずらに派手なスポットを浴びる場所だった。そこで天沢と淳一は、一枚一枚服を脱いでいく舞子を見てしまう。舞子は「裸さらしておまんま食べる生活」をしていたのだ。客席に淳一を見つけた舞子は逃げるようにステージを後にするが、まったく人が変わったように淳一に冷たい態度を取るようになっていた。

 

そんな舞子に向かって淳一はあの頃と同じように「笑っているのか、幸せなのか」と問いかける。舞子にとって「淳一先生」は憧れだったはずだ。力強い画も、信念ある生き方も、ぜんぶぜんぶ舞子にとっては憧れだったはず。そんな淳一とこんな形で再会した舞子の気持ちを考えると胸が痛くなる。誰よりも尊敬する人は、今でも変わらず美しく生きていた。そして自分にもそれを求めてきた。淳一にとっては純粋に舞子に語りかけたことかもしれないが、彼女にとっては残酷だっただろう。今でも綺麗に生きる淳一を一瞬恨めしく思ったかもしれない。

そしてまたそこには五味の姿もあった。相変わらず時代の需要に沿ったことをし続けている五味は「いまどきミュージカルなんて誰も求めていない。」と淳一の理想を否定し、ある一冊の本を渡す。

 

  • 桜木、淳一の決別

五味から手渡された雑誌には、桜木のイラストが掲載されていた。淳一はヒマワリ社の人間がなぜ他の雑誌に挿絵を描いているのかと桜木につめよる。桜木はギャラが良かったからと説明するが、淳一が気にしていたのはそこではなかった。「この絵だよ、桜木くん。君はこんな絵で満足なのか。」淳一は編集者から求められて妥協して描いた桜木の絵が気に入らなかったのだ。ここで2人の価値観の違いがぶつかった。そして淳一はまっすぐに「君を解雇する。」と桜木に告げる。目を大きく開いて、悲しそうに顔を歪める桜木は、淳一をただただ見つめていた。

 

そして言いたいことがあるなら言えばいいと言われ、ゆっくり口を開く。

「先生は今の時代に合っていない。商売に向いてないんですよ!こだわりたければいくらでもこだわればいい。でも…だったら…他人を巻き込まないでくれ…大衆向けにものを作ろうなんて思わないでくれ…孤高を貫いて自分が好きなものだけ作ればいいじゃないか…!!!!!!僕はあなたとは違う。イラストレーターだけど、芸術家ではない。僕は幸せになれるように求められたものを作るだけです、最小限の労力で、最大限の儲けが出るように!!」

「こだわりを捨てた時点で作家としては終わり」である淳一と、「人に求められたものを作っていく」桜木。根本的に違うスタンスが、2人の間にはあった。きっと桜木は淳一のことを尊敬していたし、憧れていたと思う。だからこそ長い間そばにいれたし、間違いなく淳一の理解者だった。でもそれは紙一重で。2人の関係は桜木が歩み寄って理解していたから成り立っていて、淳一が努力したことは一度もないのだ。だからこの関係は桜木が諦めてしまえば終わりだ。

でもだけど。桜木が話している間も、桜木が頭を下げて帰った後も、ボーっと一点を見つめたり、ウロウロと視線を泳がせたり、淳一は不安そうだった。「彼には彼の生き方がある。」と絞りだしたように言った言葉は、まるで自分に言い聞かせてるような言い方で、切なくなった。淳一は桜木を理解しようと努力はしなかったが、でもそれでも彼の愛情は感じていただろうし、彼を失ったことは淳一にとって大きな出来事だったと思う。またひとりいなくなった。またひとりぼっちになった。…そんな気分だったんだろうか。

きっと桜木は先生に憧れて、いつか超えたいと思いながらも、そばにいればいるほど、自分とは違う世界の人だと思い知ったんだろうなあ。そしてこれを言えば終わりだと思いながらも、最後の最後に自分の思いをぶつけたんだろうなあ。どれほどの覚悟と、寂しさだっただろう。それにしても、淳一も淳一で、愛に溢れた人だから一番近くで自分を支えてくれた桜木の愛情も感じていただろうに、それでも自分の信念を曲げないことを選ぶなんて、業の深い人だなあと思う。大切な人を失うことになったとしても妥協を許さないその生き方は、他の人を傷つけていたけど、きっとそれ以上に自分自身をも傷つけて痛みを伴っていたんだろう。

 

そんな淳一は、ぽつりと天沢に語り出す。

「芸術家なら、彼の言うように心の中で作品を作ればいい。だけど僕が作っているのは世の中の女性が手軽に手に出来る商品だ。自分で工夫できる余地のあるものだ。その商品を通じて美しく生きる方法を提案している。だがいくら手軽であっても作り手は魂を込めるべきなんだ。でなければ本質的な美しさを求めなくなってしまう。」

まるで自分の考えは間違っていない、これでいいんだと自分に問いかけるような言い方だった。天沢くん、と語りかけているのに独り言のようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ淳一はどこか寂しそうだった。

 

  • 淳一の心の葛藤シーン

 淳一が詩を読むと、さえぎるように白い仮面をかぶった敵たちが責める。

もしこの世の中に風にゆれる花がなかったら、人の心はもっともっと荒んでいたかもしれない。
「花が咲いてることに目を向けずに、荒んだままでも人は生きていける。」
もしこの世の中に色がなかったら、人々の人生観まで変わっていたかもしれない。
「いずれは褪せていく色に心を奪われて人生台無しになるだけよ。」
もしこの世の中に信じる心がなかったら、一日として安心してはいられない。
「信じて裏切られる苦しみを味わうくらいなら、最初から信じない方がずっとマシさ。」
もしこの世の中に思いやりがなかったら、淋しくて、とても生きてはいられない。

「あなたは他人にも、自分自身にも厳しい人だ。そして、寂しさに包まれて生きている。」

白いマントが仮面を外すと、そこには桜木。
もしこの世の中に小鳥が歌わなかったら、

人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

「小鳥の声なんて今は聞こえない。だから私は微笑みなんて浮かべない。」

そして舞子。

もしこの世の中に音楽がなかったら、

けわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

「のがれられたつもりになるだけで、そんな時間を求めるのはかえって残酷なだけさ」

そして五味。

もしこの世の中に詩がなかったら、人は美しい言葉も知らないままで死んでゆく。

「美しい言葉なんて、聞けば聞くほど、この現実との違いに苦しむだけさ」

もしこの世の中に愛する心がなかったら、人間は誰もが孤独です。
「淳一先生、あなたは愛する心に溢れている。なのにどうして誰よりも孤独なの。」

仮面を外した舞子が、淳一に問いかける。

白いマントが舞子や、桜木、五味になって淳一を襲ったのは、心のどこかで、罪悪感を覚えていたからだろうか。現れるたびに苦しそうに顔をゆがめる淳一が、とても痛々しかった。たしかに舞子が言うように、いずれは色褪せるかもしれない、桜木のいうように、最初から信じない方がマシかもしれない、五味の言うように、逃れられたつもりになるだけかもしれない、それが現実かもしれない。淳一の詩は理想に過ぎないのかもしれない。このシーンはこういうことを考えて、すごく淋しくなった。そして実際に現実はそうだと言う事が中原淳一さん自身も分かった上で、この詩を書いたのではないかと思った。分かった上で、そうやって現実を見るよりも理想としてこうして生きた方が美しく生きられる、そういうことを提示したかったのではないかと思った。そのための詩なのではないかと思った。

こうやって現実と対比するようにこの詩を使うのはすごく面白かったなあ。

 

  • ミュージカルプレイ

そして淳一の挑戦であった、日本初のミュージカルが上演された。その公演を見に来た、山嵜と淳一はまたもぶつかり合う。

 

そしてまくしたてるように山嵜は語り出す。 

中原淳一は、美しさを手に入れられない暗い時代だったから受け入れられた。多くの人は、ほとんどが君みたいに信念にしたがって生きることはできないんだよ。だから僕はこの手で中原淳一という作家のこだわりを壊したかった。」

淳一が「もしあの時僕を壊せたとしてそれになんの意味があるんです?」と聞くと、山嵜はゾクリとする表情で、

「スーッとすからだよ。自分より優れた人がいればそいつを自分のいる場所まで引きずり降ろしたくなる。なんだ、こいつも現実を受け入れるしかなかった俺と同じ弱い人間なんだと安心したい。」

と嫉妬心があることを白状した。この人も誰より、中原淳一に憧れていた人だったのだ。憧れて、羨んで、嫉妬していた。ならばせめて自分の手でそれを壊せたら、良い影響でも悪い影響でもいいから何かしら淳一に与えられたら。きっとずっとそう思っていた人だったんだと思う。

 

そして山嵜はこう続ける。

「物があふれると人は考えることをやめてしまう。自分で何かを作る喜びも失われて、こだわり抜いて自分にとって最高のものを見つけ出す楽しみもなくなる。並べられた選択肢の中から無感動に選び出すんだ。しかもその選択肢の中は、本物なんかじゃない。「本物っぽい」ものだ。自分じゃない誰かがいいねと言ったものだ。虚飾にまみれたものだ。君にそんな世界が耐えられるかね。」

自由な世界、大量消費社会がやってきた。自由で何でも選択できる、それゆえに自分が今何を選んでいるのか、はたまた選ばされているのか分からない社会だ。その世界で淳一は信念を曲げずに生きられるのか。山嵜もまた、淳一に憧れ嫉妬しているが故に、彼のことを誰よりも理解している人だった。彼にとってこの世界が生きづらくなることを誰よりも感じていた。わざわさそれを指摘するあたり、山嵜は嫉妬だと言ったけど、私にはそれは愛情の裏返しにも思えた。編集者でもある山嵜はやはり流行には敏感だし、きっと淳一が時代に取り残されることを察知していただろう。だからそうなって時代に捨てられていく前に、自分の手で壊したい、彼が理解されなくなる世界を見るくらいなら。嫉妬で壊したい気持ちと同じくらい、そういう気持ちもあったのではないかと思う。淳一にいちばん嫉妬していたのは山嵜だろうが、淳一を、淳一の作品を、誰よりも愛していたのもまた山嵜だったのではないかなあと私は思えてならない。こうして見てみると、本当にこの物語の登場人物は深みのある素敵な人たちばかりだ。ひとりひとりちゃんとした生き方があって想いがある、それを言葉や仕草でひとつひとつ丁寧に表現していて、それが本当に人間くさくて面白い。山嵜を自分なりに理解した瞬間にそう思った。

 

  • 舞子と天沢の再会

舞子と天沢は淳一のお店「ヒマワリ」の前で偶然、再会を果たす。病気で伏せていた母が亡くなり、五味の手助けが必要なくなった舞子は、自分の食いぶちを稼ぐために1人で生きていた。少しずつお金を貯めて、大好きな淳一先生の作品を買うことを何よりの励みにしていた舞子。やっとヒマワリで買い物ができた矢先に、天沢と再会を果たしたのだった。

 

  • 淳一の心の葛藤シーン

真っ白な敵たちが淳一に向かって叫ぶ。

「今この時代は、大量に生み出すことに豊かさを見出し、同じものを持つことに正義感を覚える、多数派に属さなければ排除されてしまう、優しくて残酷で素晴らしい世界。」

その言葉をきいて苦痛にゆがんだ顔で佇む淳一。

 何度も何度も襲ってくる敵を振り払い、逃げ惑うように舞台の上を行ったり来たりしながら手を伸ばす。

「自分自身が追い求めることもなく、工夫することもなく、そのあたりで手を伸ばせば誰でも手に入る服を着て、他人がいいよと言ったものをさも自分が欲しがっていたかのように錯覚しながら買い漁り、味も知らない評判の店で食事をして満足し、流行という言葉に飛びついて、同じ音楽を聞く。そんな生き方の何が美しいんだ……!!」

ほとんど叫ぶようにまくしたてる淳一は、倒れこみながらも言葉を続ける。

「……美しさとは自分の中から追い求めるもの。自分自身に問いかけるもの。誰かに与えられるものじゃない。簡単に手に入るものじゃない…!!!!!!」

淳一は訴えた。この時代に生きるすべての人に向かって。本当にそれでいいのかと、本当にそれが美しいのかと。

 

1幕では制限された自由の中でどう自分のこだわりを貫くかで苦しんだ淳一だが、その時代が終わって次に淳一を迎えた世界も、淳一にとっては難しい時代だった。次に待っていたのは、自由に制限のない世界。自由とは、囲いがあるから感じるもので、その囲いやくくりがなくなれば、人々は自由であることさえ忘れてしまう。自由を持て余して、無限にある選択肢を疎ましく思い、人と同じ選択肢、誰かが決めた選択肢で満足してしまう。そしていつしか自分が決められた選択肢の中から選んでいることさえ忘れ、まるで自分の意志で選んでいるかのように錯覚する。そんな自分を持つことに対して自堕落で、自棄的な世界。淳一にとっては、どちらの方がマシだっただろう。どちらだったらまだ耐えられたのだろう。どちらにせよ、時代が変わっても、時代は淳一に厳しかった。簡単には生きさせなかった。きっと生きやすい時代なんてないのだろう。きっといつの時代でも「美しく生きる」ことには痛みが伴い、苦しみが付き纏う。美しいのはその響きだけで、実際は傷だらけで生きるしかない。そういう矛盾のようなものと、やるせなさをこのシーンから感じ取って、淳一の絶望がありありと伝わってくるような気がした。

そして淳一と生きた時代は全然違うが、淳一の言ってることは現代にも通じることで、このセリフを聞いた時ハッとするひとが現代にもたくさんいるだろうなと思った。現に自分もハッとしたひとりだった。大量生産大量消費である現代社会に生きる人にとってグサグサ刺さる淳一のセリフは他人事には思えなかった。このあたりは本当に人それぞれの感じ方があると思うし、見た人の数だけの響き方があると思う。私も思う事はたくさんあったが、脱線するのでそれはまた。

とにかくこのシーンの淳一は、悔しさ、悲しさ、さびしさ、歯がゆさ、いろんな苦悩の感情が渦巻いていてすごかった。大きな眼から溢れるように垂れ流される涙と、ぐちゃぐちゃにゆがんだ顔が淳一の絶望を物語っていて鳥肌が立った。自分が求めている美しさを、もう誰も求めない、世界にひとりだけ取り残された孤独な男が叫ぶ、その姿は絶望という真っ暗なシーンのはずなのに、驚くほど美しいのだ。悲壮感にあふれ、孤独を背負ってもなお美しい淳一が、まさに美しく生きていることの証明のような、そんな説得力のある美しさだった。

 

  • 淳一の生き方

敵と戦った淳一は、苦痛に顔をゆがめながらゆっくり意識を手放していった。そうしてアトリエの階段で死んだように眠る淳一に駆け寄ったのは、天沢だった。目を覚ましてすぐに見えた天沢の顔に、どこかホッとしたような淳一は子どものようだ。

そして子どものように天沢にすがりついて弱弱しく「僕の生き方は間違っていたのか?」と問いかける。そんな淳一を、天沢は初めて否定します。

「間違っていましたよ。あなたの生き方はずっと矛盾していた。芸術家だからといって孤高を気取ってもよかった。商売人だから職人だからと流行に流されてもよかった。だけどあなたは芸術家よりもこだわりを持ち、職人や商売人よりも社会と向き合い続けてきた。こだわり抜いたものも、1日経てばもう古いと否定して、それでいて完璧な造形美を作ろうなんて狂気の沙汰だ。」

あの約束を交わした日からずっとそばにい続けた天沢にしか言えない言葉だなと思った。淳一の生き方は矛盾だらけだ。もっと高みにあるはずの、分かる人には分かるレベルである自分のこだわりを、商品として提示し続けた。しかも多くの人に希望を与えるものである程度までこだわりを落とすことなく提示し続けたのだ。でもそんな矛盾を抱えながらも淳一は多くの人から支持される挿絵を描き続けた。本当に狂気の人だなと思う。よく自分の中で相反する矛盾を飲み込んだままで、こだわり続けられたなとゾッとする。でも今までの淳一の葛藤から分かるように、人一倍悩んで悩んでここまで生きた人なのだ。だからこそ狂気だけでなく、その中にある人間らしい部分を感じとって愛しくなってしまう。

だから天沢に否定され、孤独に震える寂しそうな淳一の顔を見るだけで泣きそうになった。「君まで僕の生き方を否定するのか。」天沢の腕を強くつかんですがりつく姿にどうしようもなく悲しくなるのだ。だけど、天沢はこう続ける。

 

「いいえ。違います。それでもあなたは誰よりも美しく生きてましたよ。中原淳一の生き方は他のどんな人の生き方よりも美しい。だから多くの人に伝わるものがあったんですよ。」

きっとこれが淳一が報われた瞬間なのだろうなと思った。絶望の中で、一筋の光が差し込んだような気がした。それも強いまぶしい光ではなくて、優しくて柔らかいゆっくりと差し込むような光だ。矛盾を抱えながらも、諦めずにこだわりを追い続けた、時には人を傷つけ、いつも自分を傷つけ、いろんなものを犠牲にして。悩んで悩んで、苦しんで苦しんで、答えを出してきた。表面だけの美しさでいえば程遠いかもしれないが、そのがむしゃらでまっすぐな生き方は確かに美しかった、と。

 

「舞子さんが言っていました、もしこの世の中に完璧な造形美があるとするのなら、それは淳一先生の人生そのものだと。」

淳一が生涯かけて追い求め、焦がれていた「完璧な造形美」は淳一そのものだった。魂が震えるほどの、誰もが疑いようのない美しさとは、淳一の生き方だった。歩みを止めるときは「完璧な造形美」が出来上がったときだと淳一は言っていたが、それはまさにその通りだったのだ。淳一が人生を終えるとき、歩みを止めるときが、完璧な造形美つまり淳一自身が完成するときなのだ。

私なりにこの答えを見つけた瞬間に、スーッと暗闇から抜け出せたような、トンネルを抜けた先の鮮やかな世界に辿りついたような感覚になった。本当に気持ちいいほど、今までの淳一が報われたような、霧が晴れていくような気分になった。それと同時に、今この瞬間淳一は解放されたのだ、もうあの白いマントの仮面に追われることはないのだと思えた。長いトンネルを抜けて、あとは鮮やかな世界を歩くだけ。今までの生き方を誰かに認められ、そして自分の中でも受け入れたらあとはもう進むだけ、そんな突き抜けた明るさを感じた。

 

「やあ。いらっしゃい、舞子くん。」

そして淳一は天沢の計らいで舞子とも再会します。そこで人形に着せようと思っていたドレスを渡された舞子は嬉しそうにそのドレスを見つめていた。

「僕の中ではこのドレスは不完全だ。そして君もまだ未完成な女優の卵だ。そういう意味ではおあつらえ向きだと思ってね。」いたずらっぽく舞子に告げる淳一の顔はどことなく晴れやかだった。

 

さらに、こんなドレスをもらってもどうせすぐ汚してしまうと嘆く舞子に、淳一はこう語ります。

「汚れれば、洗えばいい。破れれば、繕えばいい。その方がただ飾られてホコリをかぶっているよりもドレスも美しく存在することができる。そのドレスと共に美しくありたまえ。努力を惜しまず、精一杯汗かいて、自分自身の夢を追い求めること。素敵な服を着て、満足するのではなく、そのドレスに見合った素敵な自分になろうとすること。そして他人の価値観ではなく、自分の価値観を磨きあげること。

美しく生きるとはきっと、そういうことだ。自分を卑下して下ばかり向かずに太陽を見上げるひまわりのように生きることさ。」

淳一の言う美しさは、悩んで葛藤していた頃となんら変わっていない。時代が変わっても、大切な人がいなくなっても決して変わらなかった淳一の思い。時にはその強いこだわりに自分自身が苦しみ、首をしめていた時もあったが、光が差し込み、苦しみから解放された今、淳一から発せられるその言葉は前よりも輝きに満ち、自信にあふれ、胸にスッと染み込んでいくようなエネルギーを持ったような気がした。

 

最後に天沢は淳一に尋ねる。 

「どうしてそんなに美しさにこだわるのですか?」
「そんなの決まってる。美しさこそ、世界を変えることができるからだよ。」

淳一は力強くそうつぶやいて、優しく笑っていた。「美しさこそ、世界を変えることができる。」美しく生き続け、自身でそれを証明した人にしかない説得力と輝きが淳一にはあった。

 

  • 登場人物のその後

桜木は、少女の友で働いていた元内のもとでイラストを描き続けているし、天沢は今はラジオではいつも声が聴こえる人気歌手だ。五味は相変わらず、真似をして「偽物」を売る生活をしている。こうしてひとりひとりの人間のその後を描くあたりがすごく丁寧だなあと思った。どの人生も綺麗な物語として受け入れて、みんな幸せになって欲しいと願える優しい演出だった。

 

  • ラストシーン

舞台の端で、一番最初と同じように真っ黒い台に向かう淳一。

フッと息を吐いて、

「上向いて、胸張って、前。」

そう呟いて、また人形に手を伸ばす。晴れやかな顔で作品に向かい、楽しそうに、幸せそうに、人形に触れる。その姿が本当に美しくて綺麗で、舞台が明るく柔らかい光に満ちたような充足感でいっぱいになる。本当に舞台がキラキラしてまぶしくて見えないような希望で溢れているのだ。

そんな淳一に向かって、舞子が、美しく生きた淳一先生の物語は、これから先も受け継がれいていくのよ。美しく生きる人のために。と語る。

そして天沢は歌う。

命のある限り おまえを抱きしめて

この世の果てまで おまえとならば

わたしのこの命 悔いなく捧げよう

かたき心の愛の誓いもちて

 

愛の賛歌を浴びながら、一生懸命作品に向き合って、幸せそうに笑う淳一が本当に美しくて。それだけで泣けた。ちなみにこの愛の賛歌、よく聞くものと歌詞が違ったので調べてみたら、実際に中原淳一さんが訳詞したものでした。中原淳一さんはシャンソンを日本に広めた方でもあるらしく高秀男さんというシャンソン歌手をプロデュースしていたとか。もしかしたら天沢はこの方がモデルなのかなとか考えられるのは、実在した人物を扱った舞台の醍醐味だなーなんて。2番の歌詞もあったのですが、とても素敵でした。気になった方は調べてみてください。

 

そして最後は、淳一の語りで舞台は終わります。

真っ黒い何もない台を指して、淳一は客席に語りかける。

「あなたにはこれがどんな形に見えますか?どんな色に、見えますか?

さあ、あなたの中の美しさを思い浮かべてみて。そしてそれを自分自身の姿として追い求めてみてください。他の誰でもないあなただけが生み出せる美しさが、あなたの人生をよりよく形づくり、そしてまた鮮やかに彩ることのできるよう。」

舞台の中央に移動した淳一の後ろに現れるのは、中原淳一さんの鮮やかな画と、大輪の揺れるひまわり。そしてたくさんのひまわりが揺れる黄色い海の中に、淳一は佇んで力強く続けます。

「僕もまだまだこだわり続ける。作り続ける。僕自身のために。

美しく生きるために。」

そうしてまっすぐ天に向かって光を掴むようにゆっくり手を伸ばすと、淳一の手にまばゆい光が集まって、舞台全体が明るい真っ白な光に包まれる。

淳一は生涯をかけて美しく生き抜き、まばゆい光の中のような存在になったのだ。

上向いて、胸張って、前。

そうやってひまわりのように太陽を見上げて。

 

とても良い最後だった。本当に気持ちいいくらいに晴れやかになる、そんな最後だった。なにより、黄色いヒマワリの海で、まっすぐ前を見据える淳一が美しくて涙が出た。ああ報われた、この人は本当に最後まで自分と向き合い続けて、美しく生き抜いたんだと自然と思えて涙が止まらなかった。美しく生きる事の素晴らしさを、自分の人生をもって証明し、提案し続けた淳一が今この現代でもまた、美しく生きようとする人たちの道しるべになっている、そんな時代を超えた奇跡に立ち会えたような気がしました。そして淳一が提案した「美しく生きること」は間違いなく現代を生きる私にも影響を与えたし、なにより、今もなお色褪せることなくたくさんの人に愛され続けている淳一の作品がそれを証明しているなと思いました。淳一が美しく生き続けたからこそ、今もなお淳一の作品が愛され、淳一の生き方が誰かの心を動かしているのだろう、と。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

ぜんぶで4公演観劇しましたが、中原淳一さんの信念や、言葉をかみ砕こう、受け取ろうと毎回必死でした。

優馬くんが制作発表の時に「美しい人しか出ていません」と言っていたけど、作品を観てみて本当にその通りだなと思いました。その時は冗談のようにクスッと笑わせるための言葉だと思っていたけど、蓋を開けてみればそれいゆに出てくる登場人物は本当にみんな強かで美しかった。

みんな何かしらの信念を持って、戦中、戦後を生き抜いていて、ひとりひとりにしっかりとした物語が見える、そんな丁寧な舞台だった。

自分が覚えておきたくて書き残したのもあるけれど、少しだけほんのちょっとだけ、見ていない人にも伝わるものがあればいいなーと思いこの記事を書いています。私の拙い文章と、曖昧に覚えているセリフでは半分も魅力を伝えられないけれど。本当にひとつもこぼさずに聞きたい素敵なセリフと、ひとつも見逃したくない美しい生き方がたくさんある物語でした。

見た方は、思い出して素敵な思い出に浸れるように、見ていない方はこんな素敵な舞台があったんだなーと心の隅にでも留めておけるように、この記事を残しておきます。

これを書き終えた今、やっと私の中の「それいゆ」も幕を下ろしたような気がします。改めて、全13公演お疲れ様でした。 

舞台「それいゆ」第1幕

舞台「それいゆ」について、一個人の感想と見解を含めた記事です。

(セリフは忠実に汲み取ったつもりですが、確実ではありません。)

私が今あるありったけの力を使って、この目でみた「それいゆ」を残したいだけですが、お付き合い出来る方はぜひ。

 

  • 語りのシーン

舞台には、真っ黒い台と真っ白い服に身を包んだ淳一だけ。

そこに手を伸ばし淳一はずっと一点を見つめ続ける。

「違う、こうじゃないんだ。」

そうつぶやいて何度も何度も手を伸ばし、角度を変え、向き合い続ける。

私ははじめ、そのシーンを見たとき、何をしているのか分からなかった。

なぜなら、その真っ黒い台には何もないから。

キャンバスがあるわけでもなく、銅像があるわけでもなく、洋服が飾られているわけでもない。

何も無い。あるとしたら、真っ白なもやのような煙と、オレンジに照らされたぼんやりとした光だけ。

だから彼が、何をしているのか、何に対して違うと言っているのか分からなかった。

そしてそのまま一生懸命向き合って、夢中で何かを作っている淳一を囲むように、登場人物たちが現れる。

そして彼が残した詩を読み上げるのだ。

 

もしこの世の中に風にゆれる『花』がなかったら、

人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。

もしこの世の中に『色』がなかったら、

人々の人生観まで変わっていたかもしれない。

もしこの世の中に『信じる』ことがなかったら、

一日として安心してはいられない。

もしこの世の中に『思いやり』がなかったら、

淋しくて、とても生きてはいられない。

もしこの世の中に『小鳥』が歌わなかったら、

人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

もしこの世の中に『音楽』がなかったら、

このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

もしこの世の中に『詩』がなかったら、

人は美しい言葉も知らないままで死んでゆく。

もしこの世の中に『愛する心』がなかったら、

人間はだれもが孤独です。

 

そして舞台の真ん中で小さく眠りにつく先生を見つめながら、

 

五味「不思議な人でしたねえ。華やかで、地位も名声も金もあって、それでいてどこか満足していない、いつも満たされていない顔をしている。」

元内「彼は時代に求められた天才だった。」

 山嵜「いや、彼は時代を逸脱した天才だった。時代を先取り、いつしか時代に取り残された悲劇の主人公だった。」

 天沢「ひまわりのように鮮やかで、その実、誰よりも不器用な男。」

 

と次々に、先生について語りだす。そしてその過去を振り返るかのように静かに物語は始まっていく。

 

  • アトリエでの出会い

天沢が、舞子に強引に連れられて向かうのは淳一のアトリエ。そこは、まるで外国に紛れ込んだかのような雰囲気で、とても戦時中とは思えない空間だった。

そしてそこにいる中原淳一もまた「異質」であった。真っ白いスーツ、足元まで眩しい純白に包まれる淳一に天沢は衝撃を受ける。アトリエの外では、誰もが窮屈に暮らし、下を向き、我慢をしているのが当たり前だったからだ。天沢もそのうちのひとりだった。大好きな歌も、歌えるようなご時世ではないからと気持ちにふたをする日々。

そんな天沢に、淳一は投げかける。

「歌えばいいんだよ、天沢くん。歌いたいなら、歌えばいい。」

 

物語のはじまりであるこのシーン。実は私はこのシーンこそ、いちばん中原淳一を表していると思っている。戦時下、誰もが国民服を身にまとう中で、それは生地がゴワゴワしていて嫌いだからと真っ白なスーツを着るこだわりの強い人。それはとても「異質」でイレギュラーだ。天沢がおかしいと言ったのは、きっとあの時代にいるとふつうの感性なのだろう。むしろ変なのは時代にまったく対応していない淳一の方。そんな淳一の変人っぷりがいちばん最初のシーンで炸裂している。

人の話を聞いているようで聞いていない、突拍子もなくイチゴの美味しい食べ方の話をする、一番最初という最もインパクトの大きいシーンで、主人公・淳一が「変な人」だと印象を与える。それだけでもうすぐに物語に色がついてグッと引き込まれるから、とても入り込みやすい最初だなと思った。

 

さらに淳一はこうも言う。

「ご時世なんて関係ない。自分自身の夢を妥協なく求めること、大切なのはただそれだけだ。たとえ戦争をしていようとなかろうと僕は同じ生き方をするよ。」

この言葉で、淳一がただの変人でないことが分かる。自分の中に確固たるこだわりを持って、服を着て、好きなものを好きだという生き方をしているのだと。戦争への反発心や拒絶ではなく、この人はただ単に自分の意志に正直な人なんだと。こうして淳一の純粋でただひたすら真っ直ぐな思いに天沢は感化されていくのだ。

 

「咲き誇る花は美しい。色や香り、生命力に満ちているからね。でもその花が枯れてしまっても、人の手で工夫を凝らすことでまた違った美しさを手に入れることができる。生きた花とは別の美しさを得ることができるんだ。これが本質的な美しさだ。」

また淳一はこんな持論も展開する。「本質的な美しさ」淳一がずっとずっと大事にし、追い求めていったもの。ここではドライフラワーを引き合いにして語られる。枯れてしまった花も、人が手を加えることで咲き誇る花と同じになれる。つまり、枯れてしまった花も咲き誇る花も、花である限り本質は同じであって、十分に美しくなる可能性を秘めている。と淳一は言うのだ。

淳一がこのセリフを言うのは、天沢が歌を披露した後だ。淳一は彼に「君にクラシック音楽は向いていない。ポピュラー音楽に転向した方が良い。」と告げたあとにこの話をする。

何の話か分からず、みんな首を傾げるのだが、淳一は本質的な美しさ=天沢の歌声、クラシック音楽=咲き誇る花、ポピュラー音楽=人が手を加えた枯れた花、と例えたかったのではないだろうか。つまり天沢の才能は認めていたが、ただ輝く場所が違うと指摘したかったのだ。たとえポピュラー音楽に転向したとしても、天沢の歌声は美しいと言えばいいのに、わざわざ小難しいたとえ話をするあたりが「淳一先生」だなと思う。

 

  • 「少女の友」の編集長・山嵜とのアトリエシーン

独自のこだわりを持ち続け、それに正直に生きている淳一にとって、戦争とはそれを奪うものでしかなかった。ついには、その影が淳一の足元にも及び「敵性文化であり、華美ゆえに時局に合わない」淳一の挿絵はそう判断されてしまう。当時押しも押されもせぬ人気作家だった淳一をどうしても失いたくない編集長は、彼にもんぺ姿の少女を描くように提案する。そんな提案を淳一はあっさりと放り投げた。

 

「僕がワンピースやスカートをはいた少女の絵を描くのは、贅沢禁止令の中で、オシャレすら許されない少女たちへのせめてものなぐさめなのです。だけど、もんぺは少女たちにとってただの日常だ。そんな挿絵を見て楽しい夢を見ることができますか?」

繊細でまっすぐな淳一の思いさえまかり通らないくらい時代は厳しかった。

 

そんな時代に向かって淳一は言う。

「美しさを愛でる気持ちや、個人の夢まで奪わなきゃ勝てないなら、……そんな戦争負けたっていい。」

あの時代でこの思想はどれだけ過激で反発的だと捉えられたのだろうか。そして自分の言ってることが当たり前のことなのに、それすら許されず過激だと批判されるのはどれほど心が痛かっただろうか。そしてそれでも妥協せずに自分の思いを貫き通しもんぺを描くことを拒絶した淳一の覚悟はどれほどのものだったのだろうか。

私はそんな淳一を、自分の思いに忠実で、明確な意思を持っている、とても強い人。戦争の渦の中に巻き込まれない覚悟を持っている人。そう思っていた。

 

  • 淳一の心の葛藤シーン

でも違っていた。ただ強い人ではなかった。人一倍の覚悟を持ちながら、人一倍の不安とも戦っていた人だった。自分の中から湧いてくる「本当にもんぺ姿の少女を描かなくてよかったのか?」という感情と正面から向き合っている人だった。

白いマントをはおった「もう一人の自分(淳一自身)」なのか「世間(周囲)の声」なのか、はたまた自分が作り上げてきた「作品」なのか、そんな得体のしれない物体に追いかけられることに人一番怖れていた、とても弱い人だった。

 

  •  舞子と淳一「絶交しよう」

淳一が「少女の友」の専属作家を辞めてしまったことを知りショックを受けた舞子は、アトリエで淳一にすがる。

「私も我慢してるから、先生も我慢してよ!我慢して少女の友に挿絵を描いて!!!!!」

悲痛な彼女の叫びは、とてもわがままで無茶なお願いだった。でもきっとそれくらい、彼女や当時の少女たちにとって淳一の画は生きる希望であり、戦争を忘れられる唯一の楽しみだったのだろう。しかし、淳一にも曲げられない信念があった。

「舞子くん。君もわがままだし、僕もわがままだ。だから絶交しよう。今後一切このアトリエに出入りするのは遠慮してくれたまえ。」

こうしてふたりはすれ違う。涙をいっぱいためた舞子に突き飛ばされた淳一が少し悲しそうにうつむくのがすごく切なかった。舞子の思いも分かるし、淳一の突き通したい信念も分かる分、ぶつかって交わらなくなってしまった思いが痛かった。淳一は夢見る少女のために「もんぺを描くくらいなら」と降板したのに、その少女はもんぺを描いてでも辞めないでとすがる、矛盾した二つの欲求が相手を強く思うが故の衝突なのが歯がゆかった。

 

  • 五味と淳一、出会う

舞子の婚約者である実業家・五味。彼との出会いもまた淳一に影響を与えて行く。

「あなたの作るものは素晴らしい。当たり前だ、本物なんだから。でも例えばもし、このドライフラワーのまわりに似たような花を置いたとして、果たして何人の人が本物の花を選ぶでしょうねえ。この世の中にはね、偽物でも満足だという人もいる。だから私の商売が成り立っているんですよ。」

もちろん偽物は決していいものではない。彼もきっと誇りを持ってしているわけではないだろう。でも売る人が、作る人とが悪いのは当たり前だが、買う人がいるから成立するのが商売だ。この商売が成り立っているのはそういう「妥協した、なんのこだわりも持たない人」つまり淳一とまったく真逆の者がいるからなのだ。五味は正攻法ではないし決して綺麗とは言えないが、彼もまた人間をよく知るうえで自分の意志を持つ男だった。こだわりを持たない、流行ったものを次から次へと真似ていき世を渡っていく、そんな淳一とはまったく真逆のこわりを持っていた。言うなれば、こだわりを持たないという「こだわり」だ。

 

そんな現実を突き付けられた淳一は、「帰ってくれ!!!!」と五味に怒鳴る。そして疲れた顔で天沢に尋ねるのだ。「君はどう思う?」それに天沢は、僕はあなたの信念や生き方を否定する気はないと言い切ります。 

「歌いますよ、僕は。もう時代のせいにして下を向くのはごめんです。」

彼は淳一と出会ったことで、我慢をして下を向いていた自分と決別し始めていた。歌えばいいと言われて、淳一の前で歌った喜びがきっと、彼の心を満たしたのだと思う。そんな天沢に嬉しそうに微笑んだ淳一は「見せたいものがある」と告げる。きっとこのとき、淳一は天沢に本当に心を開き、この人になら「僕」を見せてもいいと思ったのだろう。

 

このシーンは、淳一と天沢の距離が一気に近くなり、心が寄り添い始める一方で、ずっと淳一のそばにいて、彼を支え続けてきた桜木との歯車が狂い始めるきっかけともなっている。「桜木くん、今日はもういいよ。」と言われ、静かに頷いて蓄音機を止めにいく桜木の顔はどこか淋しげで、胸が痛くなる。と同時に「ずっとそばにいたのは僕なのに…」「先生のことなら僕が一番分かってるのに」という気持ちと「僕も先生の信念をまっすぐ信じられたらいいのに。」「僕がいちばん理解してあげないといけないのに」という狭間にいたのだろうか。ふたりを見つめる桜木はとても複雑そうな顔をしていた。

 

  • 淳一と天沢の誓い

アトリエの奥の部屋に連れられた天沢はそこで、淳一からあるものを見せられる。冒頭で、淳一がずっと向き合い丁寧に触れていた得体の知れないものだ。そこにあったのは人形だった。それもフランス人形などというようなカテゴリーにも属さないような、いわば何にも例えられない芸術品だった。

 

そこで淳一は静かに語り始める。

「僕が目指しているのは、ただ純粋に完璧な造形美としか言いようのないもの。誰もが疑いようのない美しいものだ。」

 

話しているうちに淳一の眼は遠くを見つめ、強く意思をもった輝きを放ち始める。

「僕は美しさに答えはないと思っている。国や文化、どんな環境に生きているかで何を美しいと感じるかは変わるからね。それはとても素晴らしいが同時に怖いことだ。なぜなら、意図的に誘導できるからさ。人は弱いから、誰かが押しつけた価値観を、まるで自分の価値観のように錯覚することがある。右へならへで考えることをやめてしまうのさ。もんぺをはかされているのではなく、自分の意思ではいているんだと思い込んでしまうんだ。

だから僕はこの手で証明したい。魂が震えるほどの間違いようのない美しさが世の中に確かにあるんだということを…!」

淳一は、完璧な造形美を追い求めていたのだ。

そしてその理由をこう言っている。

「自身の生き方、魂を極限まで磨き上げて、純度を高めて挑む。なぜなら、彼らが見ているからね。僕の中にある不安や、弱さを。決して見逃さないように。」

彼らとは、得体のしれない真っ白い物体だ。仮面をつけ、白いマントを羽織った物体。淳一が葛藤し、戦っている奴らのことだ。言わば、見えない敵のようなもの。その彼らが見ているから、淳一は完璧な造形美を求めていると言うのだ。他の誰にも見えない、自分の中だけでの戦い。誰かと張り合うのではなくひたすら自分と向き合い、自分の中の敵と戦わなければいけない挑戦。淳一はいつもそうだった。内側との戦い。自分との勝負。他を顧みず、それだけを追い求める。一見すると、ただの自己満足のような、自己中心的な挑戦に思える。でも証明するためだけに他人の評価が欲しい。美しさを認めて欲しい。なんて独りよがりなんだろう、なんて矛盾してるんだろう。でもこの淳一の矛盾こそが、彼が作品を作る原動力だし、彼の人間味だと思った。いびつで、不器用で不思議な人だ。

 

そんな淳一に向かって天沢は約束をする。

「先生あなたならきっと完璧な造形美を作り出すことができますよ。ですから、約束します。僕は生涯、先生の生き様を見つめ続けると。先生が追い求める完璧な造形美が出来上がるその日を、1番近くで見届ける。構いませんよね?」

かたい握手と、契りを交わしたふたりは、それからお互いにとって唯一無二の存在となっていきます。

 

  • 画材屋ヒマワリ開店

淳一は少女の友を辞めても、少女たちに夢を与えることをやめようとはしなかった。かわりに、自分の作品を待ってくれている人に直接届けようと「ヒマワリ」という店をはじめた。

 

そこで開店祝いに訪れた山嵜編集長は、淳一に向かって言葉を投げかけます。

「君の妥協のない生き方は、いつか自分自身の首をしめる。いつか少女の友をやめたことを後悔する日が必ず来る。」と。

淳一は「そんな後悔するくらいなら死んだ方がマシだ」とつっぱね、怒ったようにその場を去ってしまう。

 

そして舞子を連れて田舎の長野に引っ込むことになった五味も挨拶にやってきて、そこで天沢に淳一についてこう語る。

「あの人は強いようで弱い。こだわればこだわるほど自分自身の首をしめていくような、大きな矛盾を抱えていくような、そんな危うさを感じたんですよ、あの先生からは。」

そして、「誰があの人のことを分かってあげられるんですか?」とも。

五味さんもやっぱり人との関わりを生業にしてる人だから、人を見る目はすごくあるんだろうなと思う。きっと人一倍、人間の感情に敏感で、繊細な部分を読み取るのもうまい。そんな彼から発せられる「あの人は強いようで弱い。」の言葉の重みはすごいなあ。五味から与えられた言葉でより一層、淳一の脆さや弱さが縁取られて、人間味が増していく。中原淳一という人物を他人がどう見ているのかを提示することでより一層深みを増していく人物像があって、その描写がうまいなと思ったシーンだった。

 

  • 淳一の心の葛藤シーン

一方淳一は苦悩の中にいた。山嵜編集長の言葉を反芻して、葛藤していた。「僕には僕の理想がある。」自分の中にあるこだわりと、現実との折り合いのつけ方がものすごく下手くそで、不器用な淳一らしい苦悩だと思った。妥協を許さないこの生き方が正解なのか、本当に後悔しないのか。白いマントを翻して、淳一の周りを囲む敵が何度も何度も淳一を責める。そのたびに、眉を顰め、潤んだ瞳を見開き、不安を振り払うように両手を振り回す淳一は、深い深い闇に吸い込まれていくようなどうしようもなさを身にまとっていた。

「昨日作ったものは今日古くなり、今日作ったものは明日には古くなる。歩みを止めてしまうのが怖いのだ。」

淳一はそうつぶやきながら、必死にまとわりつく敵を振り払う。 それでも奴らは淳一にずっとつきまとったまま…。

 

ここで1幕が終了します。1幕は、時代は戦中。贅沢の許されない、皆が同じことをしなければならない、制限された世界。自らが選ぶことのできない、自由のない世界。その時代の中で、淳一は自らのこだわりに向き合い続けた。いくら制限され、自由を奪われても、美しいものや、夢を追い続けた。彼にとっては、生きづらい世界だっただろう。だから、毎日あの敵と戦っていたし、後悔に苛まれていた、でもそんな苦しみの中でさえも作品を生み出してきた。きっとそれが生き甲斐だったし、自分を表現する方法だったのだろう。果たして彼のこの苦しみは、この時代ゆえだったのだろうか。制限されていたからこそのあの苦しみだったのだろうか。そういう疑問を残して終わる1幕だった。そしてその1幕と新しい時代へと突入した2幕のコントラストがすごく面白いのだ。

というわけで、2幕に続きます。

 

辰巳雄大くんと中山優馬くんのエピソード集

優馬くんの話を聞いていると、必ず出てくる名前がある。もうこの時点でたぶん優馬担だったら「あーはいはいあの人ね(^ω^)」って察しているであろう、そう正解、辰已雄大くんだ。

だいたい優馬くんが楽しそうに話し始めると数秒後には「ゆーだいくん♡」と言い出すのが優馬担の中で、もはや当たり前の出来事となってきた。
 
そんなふたりが共演する舞台がいよいよ明日幕を開ける。
ふたりの念願だった舞台上での共演。そしてその共演のおかげで、ふたりでの雑誌やテレビでの露出がとても増えた。
……だがなんかちょっと…様子がおかしい。おかしいと思うのは私だけだろうか。とりあえずザッと語られたエピソードを並べてみる。
 
エピソード1
優馬くんが中原淳一さんの描く美人画に似ているという話から
辰巳「優馬って何をやってもちょっと品が出るじゃない。そういう感じがあのイラストとぴったりなんだよね。あの格好の優馬だったら、チューできるかも(笑)」
優馬「何それ、意味が分からない(笑)」 

 

そうなんです、ナチュラルにコレを繰り広げるのが、たつゆまです。こんなん序の口です。にしても優馬くんの「意味が分からない」のバッサリ感がいっそ清々しいwwww誌面には(笑)ついてたけどたぶんこの人ナチュラルに真顔で言ってそうだなこれwww
 
エピソード2
辰巳「俺がここまで気持ちをシンクロできるヤツ、年下はもちろん、同い年にも、年上にもいないよ。おかげで、ホントなら知られたくないことまで、優馬には知られちゃってるし…」
優馬「雄大くんも俺の闇の部分(笑)をたくさん知ってるじゃないですか。」
辰巳「わかりやすく言うと、俺は人前で弱いところを見せたくないタイプなわけ。それこそメンバーにもね。だけど優馬には見せちゃうんだよなあ。」
基本的にどの対談でも辰巳くんが、なかなか深いところまで語ってくれるから、知らなかった優馬くんとか、けっこうあけすけに2人のことを語ってくれるのが面白い。本人達からきく関係性ってやっぱりすごくリアルだし、こういうネガティブな部分のことは余計敏感に感じとっちゃうよね。あと、人前で弱いところを見せたくないのは優馬くんも同じだと思ってるから本当にこのふたり似てるんだろうなーって感じたエピソードでもある。
にしてもこうやって対談とかがあるまで、優馬くんの方が「ゆーだいくん♡」ってひたすら懐いてる感じしてたけど、意外と辰巳くんも辰巳くんで愛が重そうだった……www
 
 
エピソード3
優馬「そういえば、前に俺の地元の友だちが東京来たとき、ごはん連れてってくれたじゃないですか。気をつかってもらってすみません。」
辰巳「全然!地元の友だちを紹介してもらえるなんて、逆にうれしいよ。」
優馬「みんな「今度はいつ、雄大くんに会えるんだ。」って言ってます(笑)」

 

……楽屋で話せよwwwwww
と、一瞬なに読んでんのかなこれって感情が迷子になったエピソード。
優馬くんって仲良くなった人に自分の友達合わせがちなところあるから、自分の仲良い人同士をくっつけるプロだから、これ聞いた時にあ、優馬くんも辰巳くんもお互いに対してガチだこれwwwってなった。
本気で仲良くないと聞けないエピソードですね。優馬くんも「先輩」には地元の友達さすがに紹介しないだろうから、良い意味でそう思ってなくて本当に辰巳くんに心開いてるんだなーって思うし、辰巳くんも地元の友達紹介されて嬉しいってもうただの友達のテンションじゃんって思うから微笑ましい。
それとあと、優馬くんの友達に「今度いつ会えるの」って言わせる辰巳くんの人間力がもはや神レベル…………。天性の才能としか思えないこの愛され力な……。そしてやっぱり辰巳くんに懐くのは優馬くんの友達だなって。類は友を呼ぶってやつですね。
 
 
エピソード4
優馬「俺に不満、ありません?」
辰巳「だから~、俺の秘密を知りすぎてるところだってば♡」
…………だからなに読まされてるのかなコレ?(^ω^)
誌面上でただただ惚気話聞かされる私達(おたく)な……
もはや「あーはいはい(^ω^)」の境地まで達した。
ここまで読んで分かったけど、やっぱり辰巳くんって愛重めだよね……??優馬くんばっかり懐いてるって思ってたけど、そうでもなかった(笑)むしろ辰巳くんの方がちょっと重めでは……と思い始める始末。
なんだろうね……この「俺の秘密」の言葉のお前ら入ってこれねーだろ感……
語尾の♡から伝わる「俺と優馬だけ」みたいな優越感浸りまくり感……!!!
辰巳くんぜったい独占欲も強いタイプだ!!!!
にしてもこうやって言われると絶対優馬くん嬉しいだろうから、辰巳くんって分かってるなーってつくづく思う。辰巳くんから漂う爆モテオーラはだいたいこういう発言に滲み出ていると思っている。
 
 
エピソード5
辰巳「釣りに誘われたときも全部準備してくれて、「これ雄大くんのです。もう糸もついてます。」っていたれりつくせり。俺が女のコだったらキュン♡だね!それに、ふだんはしっかり者なのに、たまに甘えん坊な一面が見えるときがあって。いっしょにお酒飲んでるときに「雄大くん、大好きっすわ」って言われると、かわいい後輩だなって(笑)優馬ってそんなの言わない感じなのに、そのギャップはズルい!!」
 
ここまで一息です感がヤバい。
基本的に、優馬くんの魅力について語る文が異常に長い辰巳くん。
そして辰巳くんが話す優馬くんのエピソードってハズレなくピカイチかわいいの。
絶対同担だろってくらい需要のある話しかしてこない辰巳くんなんなのこわい……(震)
甘えん坊て(死)しっかりしてるのにお酒飲むと甘えん坊て可愛さがすぎてる(死)
可愛さが致死量超えてる_:(´ω`」 ∠):_
そしてトドメの「雄大くん、大好きっすわ」でしんだ。
軽率にしんだ。もうむり生き返れない。(語彙力の消失)
どんなテンションで言ってんのかな。優馬くんの「大好き」とか可愛さしかないだろ天使かよ……。絶対かわいい……。雄大くん前世でどれほどの徳を積んだから優馬くんに「大好き」って言われる人生を手に入れたのだろうか…。ゆまコンの最後の「よりによって心がないっ!」って言ってる映像の優馬くんを酔ってるって思いながら見たらすこぶる可愛いから、あれをエサに妄想したら軽率にしんだ。かわいい。むり。やだ。かわいい。(語彙力も三途の川渡った)
 
あと他にも、
「一緒に食事にいくと時間が経つにつれてカワイイ年下感を出してくる。「今めっちゃ楽しいなぁ~」みたいなことをサラッと言われてキュンとした。「もっとこの子を喜ばせたい」って思っちゃう。」
とも言っていた。なんなのめっちゃ出てくるじゃん…カワイイ優馬くんのエピソード泉のように湧いてくるじゃん…なんなの辰巳くんは普段どんな優馬くん見てんの…(地団太)
にしても「今めっちゃ楽しいなぁ~」「雄大くん、大好きっすわ」の優馬くん完璧オトしにかかってるし、合コンで言ったら百戦錬磨のつわものじゃん…!!現に「もっとこの子を喜ばせたい」って完全に相手オチてる…!!辰巳くんズブズブ両足沈んでる…!!!
さっき辰巳くんは何を言ったら相手が喜ぶか分かってんなーって言ったけど、優馬くんはたぶん天然ものでやってるから余計タチ悪そう。いちばん合コンで同性敵に回す女子のやつ。
辰巳くんは計算して喜ばせてくれるプロ仕様だけど、優馬くんは無意識の狙い撃ちハンター仕様すぎる。あざとい。
この天然さが辰巳くんに効くんだろうな……。
だって「優馬ってそんなの言わない感じなのに、そのギャップはズルい!」って完全にハマってる人の発言としか……!!
ああこうやって人ってオチるんだなって悟った瞬間。
そしてああこうやって優馬くんて色んな人からズブズブに愛されてきたんだなって悟った瞬間。そりゃみんな可愛がるよ…。
 
エピソードとしては以上ですが、他にも優馬くんが「雄大くんは普段明るい分、闇が深い!」って言ってたりとか、お互いがお互いについてけっこう赤裸々に語ってる部分もあって、本当にひとつひとつが濃くて面白い対談だなあと思いながら見てました。でもやっぱり様子がおかしいとは思う(笑)はたから見たら完全に付き合ってるとしか思えないし、お互いがお互いの理解者だと絶対思い合ってるし、なんなら恋人より密度の濃い距離の近い関係に見える。ほんと…何を見せられているんだろうか我々は…(震)
ここまで読んでみて、一周回ってまた「たつゆまとは一体…」ターンに入るから本当にこのふたり次元が違う。
ただ何回でも言うけど、辰巳くんが持ってくるエピソードは百発百中でカワイイ(T_T)(T_T)(T_T)ってなるしかないので、優馬担は結局辰巳くんには頭が上がらないし、徳を積んだ辰巳くんを(同担として)尊敬するしかない。優馬担の尊先is辰巳雄大
 
このふたりが共演する舞台の幕がもうすぐ上がる。プライベートもほぼほぼ一緒にいるこのふたりが舞台の上ではどんな化学反応を見せるのか。
それをこの目で見たら「たつゆまとは」の答えが見える気がする。このふたりが積み上げてきた時間がなんとなくだけど姿を見せる気がする。
ふたりが熱望して一緒に挑んだものの答えが、結晶が、どう目に映るのか。今とても楽しみです。
……なんかすごいクソ真面目な最後になったことに自分がいちばん驚いてる…。
さて明日!!!!!!幕が上がるぞ!!!!!楽しみだー!!!!!

 

今を見つめられるファンになりたい

2016年が始まって半年近くが経とうとしている。
そしてもうすぐ、優馬くんの誕生日に発表された主演舞台の幕が上がる。
それが終わればすぐに、主演映画の公開も控えている。
ありがたいことだ。今年も優馬くんに仕事がある。
どれも主演と謳われるもので、少し緊張もするけど、楽しみの方が大きい。
すぐ近くにこんなに楽しいことが控えていると、こんなにも毎日明るくなるのかと思うし、待ち遠しく思いながら過ごす日々は幸せだ。
さらには、今年の終わりにもすでに仕事が決まっている。
私がいつか優馬くんに!と望んでいたミュージカルだ。しかも優馬くんが師匠と慕う屋良くんとのW主演。
初ミュージカルにして主演という重圧は、屋良くんがいることで和らぐのではないかととても心強くて、嬉しくて嬉しくて、今から年の瀬が楽しみでたまらなかった。

こうやって優馬くんの今年のお仕事が、こんなに先まで決まっていることは嬉しいし、ありがたいし、傍から見れば順調そのものかもしれない。
贅沢だ、と言われればそれまでだけど。
不満があるなんて思ってもいないけど。
満足してるわけでもなくて。
私はどこかで、まだまだだ、と思っていた。
まだまだ優馬くんを知らない人はたくさんいる。
舞台や映画の仕事はあっても、テレビの露出がまったくと言っていいほどない優馬くんにどこかもどかしく思う気持もあって。
最新シングルを出してからもうすぐ1年が経とうとしている。ファーストライブからも、もう1年が経った。
優馬くんを取り巻く環境は決して楽とは言えない。
優馬くんに対して、もっと貪欲にこうして欲しい、こうなって欲しいと思うことだってある。
舞台だけじゃなくて、テレビにも出て欲しい、歌もダンスも続けて欲しい、欲張りかもしれないけど、アイドルとしていろんなことに挑戦する優馬くんが見たい。

たまに、こういう焦りのようなもどかしさのような気持ちに支配される時がある。
何も急ぐことでもないのに、優馬くんはとてもありがたい環境に置かれているのに。
気持ちだけが先走って、理想にばかり目がくらんで。今の優馬くんじゃ、今のままじゃ、って「今」の優馬くんを見つめることを忘れてしまう。
未来のこうあって欲しい優馬くんばかり求めて、いちばん大切な今この瞬間の優馬くんを、目の前にいる優馬くんをないがしろにしてしまう。今の優馬くんには二度と会えないって分かってるはずなのに。
イヤなファンだなあ。焦りやもどかしさに支配される度に、そう思う。
今の優馬くんを認められないなんて、いちばんダメだ。
でもこういうダメな私を引き上げてくれるのも、また優馬くんだ。

今回はクロスハートの詳細が発表されたから。
私が想像していたよりももっと、大きくて豪華な舞台だった。
優馬くんの記念すべき初ミュージカルは、1ヶ月以上あるプレゾン並のものだった。
正直とても驚いた。屋良くんがいるだけでも十分だったのに、思ったよりもすごいキャストの方たちとの共演だった。
純粋にワクワクした。早くこの舞台に立つ優馬くんを見たいと強く思った。 
この華やかで大きなミュージカルで主演を飾る優馬くんにもっと期待したいと思った。
そうだ、優馬くんは今からこんなに大きい仕事を成し遂げるんだ。何も焦ることなんてない。
こうやっていつも、ダメな私を引き上げて、今の優馬くんを見なければ、と思わせてくれのは他の誰もでもない、優馬くん本人なのだ。
今回もまた優馬くんに引き上げられた。

優馬くんと同世代の仲間達が、大きくなり、あっという間にすごいスピードで駆け抜けていく。Hey! Say! JUMPSexy ZoneジャニーズWEST、いつも手を取り合って同じものを目指しながら階段を登る彼らは眩しくて、キラキラしていて、見るたびにグループっていいなと羨ましい気持ちになる。と同時に、優馬くんも同世代として、1人でも彼らに並べるように、グループ分の輝きを放てるようになって欲しいと願っている。それが故に、同世代がどんどん階段を登るたびに焦ったりモヤモヤしたりする時もある。
そんな時に優馬くんを見ると、自分のモヤモヤがスッと消えていくのだ。優馬くんはきっともうそんな次元にいないのだろうなと思わされる。もちろん人間だからモヤモヤしたり焦ったりもあるだろうけど、そんなものに支配されたりはしないんだろうなあと思わされる。
改めて私が好きになった人は、強い人だなと思うのだ。
だって私が見る優馬くんは、いつだって目の前のこととまっすぐに向き合って全力で今を生きているから。
その姿を見る度に、私もそうでありたいと思うのだ。私も今の優馬くんと向き合いたい、今この瞬間の優馬くんを感じたい。人と比べるのではなく優馬くんだけを見ていたい。そう思う。
いつだって優馬くんが強いから。ファンである私も、そういう欲に支配されない強いファンでありたい。
優馬くんに見合ったファンでありたい。そう、強く思う。

またきっと、焦りだったりモヤモヤした思いを抱くこともあるだろう。
ソロで活動する優馬くんにとっては時間がかかる、難しいこともあるかもしれない。
でもきっと。私が翳りを感じても、優馬くんが雲間から新しい光で照らしてくれる。
それは優しい光だったり、柔らかい光だったり、まぶしい光だったり、強い光だったり。
その繰り返しでずっと、今この瞬間の優馬くんを見つめていけたらいいなあ。
未来が不安で今が見えないんじゃなくて、未来が分からないからこそ、今ここから未来が変わるかもしれないからこそ、今しかない優馬くんを見つめていけたら。
そしたらいつの間にか、私が望んでいた未来がやってくるかもしれない。もし違っていたとしても。ちゃんと向き合っていた優馬くんを見ていたら、受け入れられるかもしれない。

もうすぐ、主演舞台それいゆの幕が上がる。今とても優馬くんに会うのが楽しみだ。中原淳一さんとして生きる優馬くんは、どうだろう。
この目でしっかり見つめて、優馬くんが全力で向き合った中原淳一さんに私も向き合いたいと思う。
これが終わったとき、また大きくなった優馬くんに会えたらいいな。1歩でも階段を上がれたらいいな。
今はそんな足元の目標で十分な気がする。
ゆっくりそれを積み重ねて、いつか大輪の花になれば。
遠い未来の話かもしれないし、もしかしたらすぐそこまで来てるのかもしれない。
そんなワクワクとともに、この瞬間の優馬くんを応援できることが幸せだと今は思える。
  
これからは2016年の予定が先まで埋まっていることに感謝して、ひとつも見逃さないように。無駄にしないように。
大事に大事に、追いかけられるように。
ちゃんと「今」から目をそらさずいられるように。
そうやって私も優馬くんみたいに強くなりたい。
すぐに迷ったり、不安になったり、自信をなくしたり、後ろ向きになる私だけど。
少しでも近づきたい。
だからここにこうして、書かせてください。
誓わせてください。
今の優馬くんを全力で応援できるファンになります。
そしてまた迷ったとき、焦ったときに、読み返して何度でも「今」を見つめられるように。
ここに残しておきます。

日焼けしたみたいに心に焼き付いた君の姿をした跡になった

2008年4月24日。8年前の今日は。

11歳の私が、14歳の中山優馬くんに出会った日。
そんな今日は、私が優馬くんを見つけた瞬間を、好きだと思った瞬間を、どうせなら記念に書き残してみようと思う。
 
あの時のことは、今でも鮮明に、明確に、覚えている。
画面の中の優馬くんは、NHKのドラマ「バッテリー」の原田巧として、野球部の監督であるオトムライを睨みつけていた。
印象として残ったのは、しっかりした眉毛と、低くて落ち着いた声。
そして何より、鋭い目つきだった。
制作側も優馬くんの大きくて切れ長の眼を「巧」を表す上で重要なポイントとしていたのか、何度も映していて、画面いっぱいに優馬くんの眼が映る度に息を呑むように、引き込まれていた。
ちなみにコチラが私が好きだった巧くんの目つき。
f:id:sea813:20160424212808j:image
この挑発するような、威嚇するような、強くてハッキリ意思表示する眼に一瞬でもっていかれた。
とても衝撃的だった。あまりにも「巧」だったから。小説から出てきたみたいな生意気な「巧」だったから。
原作のあさのあつこさんのバッテリーが大好きだった私には、本当に巧が現実に存在している気がして、巧に会えた気がして、とても不思議でワクワクした覚えがある。
 
こうしてバッテリーの巧として優馬くんを見始めて、ただ「原田巧」が好きだった。クールで感情表現が下手くそであまり笑わない巧くんが好きだった。
そんな巧くんが笑った瞬間は、可愛くてもっと好きだった。
私の中に巧くんが「笑う」っていうイメージがなくて、でもあまりにも巧くんが可愛く笑うから、より「巧」という人物に色がついたみたいでとてもドキドキしたのを覚えている。
そんな巧くんの笑顔はコチラ。
f:id:sea813:20160424212836j:image
今思えば大きいおめめがキュッてなくなる笑い方は巧くんでもなんでもなくて、優馬くんそのものだなあと思う(笑)
そして1番覚えているのが、8話のいなくなった青波を探す場面。
f:id:sea813:20160424212859j:image
無事に見つかって、青波の真っ直ぐな思いを聞いて、涙を流す巧くんがあまりにも綺麗で、こんなに綺麗な涙があるのかと胸がギュッとなって……今思うと多分この時にはもう落ちかけていたんだろうなあ。
 
「原田巧」を通して中山優馬くんと出会い、「原田巧」が好きだから巧くんを生きる優馬くんが好きだった。
「原田巧」ではない優馬くんに興味はなかった。本当に「中山優馬」を好きになったのはもっと後の、少年倶楽部in大阪で「circle」を踊る優馬くんを見た時だった。
本当にこれこそ運命だと思ってるけど、何気なくまわしたチャンネルで、初めて見る番組に手をとめたのは紛れもなく踊る「巧くん」を見つけたからで。
2度目の衝撃だった。あの巧くんが踊ってる。
あの巧くんが歌ってる。何一つ結び付かなくてちぐはぐな違和感を感じた。でもひとつだけ同じだったのは。
あの力強い意志を持った眼。この人は巧じゃなくても、あのすべてを飲み込むような膨大なエネルギーを持った眼をするんだと思った。
その眼に吸い込まれるように、引き込まれるように、気づいたら「中山優馬」に興味を持っていた。
 
今でも、優馬くんの意思とは関係なく、まるで生きているように、いつだって強く鋭く光を放つ優馬くんの眼が何より好きだ。あの眼に囚われて、この8年ずっと優馬くんがあの眼で見てきた光景を一緒に見てきた。
でも、あの時より。私が出会ったあの時より。
優馬くんの眼は、柔らかくて優しい光も宿すようになったと思う。
8年前の優馬くんには、根拠の無い輝きがあった。理屈では説明出来ない強いまぶしさと、他を相容れないただならぬ雰囲気と、根拠がない故の危うい刹那の煌めきのようなものが優馬くんの中で乱立していた。そこには何一つ確かなものなんてなくて、いつか消えて跡形もなくなるんじゃないかという儚ささえ、優馬くんの根拠のない輝きに切なさを足していた。
そんな優馬くんを好きになった。すべてをねじ伏せるような鋭くて強い眼光の中に、脆くて消えそうで何かを訴えているような弱さを感じる瞬間がたまらなく好きだった。
この人は自分の意思ではなくて、何かに選ばれて立っているんだ、だから選ばれし者にしか背負えない光を宿しているんだと本気で思っていた。
 
そんな優馬くんも8年の時を経て、本当に一言じゃ片づけられないくらい色んな波を乗り越えて、今もなお変わらずに私たちの前にいる。
あの時よりずっと、柔らかくて温かくて穏やかな眼をして私たちの目の前に立つ。
この光を宿すまでに優馬くんはいくつの「自分」と「意思」を置いてきたのだろう。
一体いくつの眠れない夜を越えてきたのだろうか。
こんなに何年も見てきたのに、それは何一つ分からない。
でも確かにこの目で見てきた優馬くんはいつからかを境に、根拠の無い輝きを放たなくなった。自分でコントロールできないみたいなやたらと強い光を放たなくなった。その代わりに、しっかりと意志を持った強さの中に優しさを秘めたような光を身にまとい始めた。
輝きに意思と根拠を持ち始めた優馬くんは、なんだかとても人間っぽくなった。
どこかアンドロイドのような、意志を「持たされている」みたいな無機質さを感じなくなった。人形みたいなどこか人間離れしている異質さが優馬くんの異様に目立つ眼に似合っていて好きだったけど、今は同じ時間を生きている人だと分かるような温度を感じる優馬くんで安心する。どの優馬くんも好きだけど、今の優馬くんは純粋に美しい人だと思える。
 
こうして7年。短いようで、やっぱり長かった。
変わらないようで、たくさん変わっていた。
だけど、優馬くんはそこに居続けた。
どこにも行かなかった。
私も。優馬くんを追い続けた。
そしていつの間にか8回目の春。
私は8年経ってもあの瞬間を覚えているから、きっといくつになっても、9回目でも10回目でもこの時のことをずっと覚えていると思う。
だから9回目の春も、10回目の春も、優馬くんのあの眼に映る世界を一緒に見れますように。
 
日焼けしたみたいに心に焼き付いて君の姿をした跡になった
ひまわりが枯れたって 熱りがとれなくて まだ消えずにいるよ
瞼の内側で君を抱きしめると 心臓の鼓動が僕に襲い掛かってくる
そいつをなだめて 優しくてなづけるまで まだ時間がかかりそうなんだ

 

欅坂46の『サイレントマジョリティー』が衝撃的だった話

タイトル通りです。最近よく見かけるからと、軽い気持ちで検索したらとんでもなかった。その時の衝動にまかせて今ここに書き残しにきてしまっていることから、私の衝撃度合いが分かるだろう。

女子アイドルのデビュー曲がこんなにカッコよくていいのか。いっさい可愛らしさのない反抗的な歌詞と攻撃的なサウンドがデビュー曲なんてアリなのか。

ちょっととりあえず見て。とりあえずMV見て。限定公開だから迷ったらすぐに見て。


欅坂46「サイレントマジョリティー」

リンク貼れなかったのでMVじゃないが、コチラもインパクトでかいぞ。最後の平手友梨奈さんの不思議な微笑み超ゾッとするから…!!(全力で褒めてる)

まず武骨な重機が佇む工事現場みたいな場所でアイドルが踊っているというアンバランスさがとてもクセになる。その無骨な場所で、若くて可愛いを売りとするアイドルが歌う曲とは思えない、反抗的な歌をうたっているのだ。

「君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるな」「つまらない大人は置いて行け」「この世界は群れていても始まらない」そんなとても強い言葉たちが並べられ、好きに生きろ、未来は私たちのためにある、と叫ぶ。まるでそのメッセージはアイドルではなく、尾崎豊のようだ。歌詞にはたいして意味のないキャッチーなアイドル曲だったら軽い気持ちで楽しく聞けるが、この曲はそんな甘えは許してくれない。刺さるような、胸を抉るような攻撃性のある歌詞がまだ幼い、不安定でぎこちない声で歌われる。そのミスマッチさが幼い、まだ「子ども」と呼ばれる子たちなりに思っている生々しくて危なっかしい本音となってより届く気がする。またきっと今しか歌えない、もう少し経って大人になってしまうと鋭利さに欠けるであろう刹那も魅力になっているのかもしれない。

そしてもうひとつ。アイドルには欠かせない、グループの顔とも呼ばれるセンターもとても魅力的だ。名前は平手友梨奈さん。グループ最年少、2001年生まれの14歳だそうだ。これを聞いて何より驚いたのは2000年代に生まれた子がもう14歳になっていることだった。ちょっと待って怖い。いつの間にそんなに経ってたの。2001年なんてついこないだじゃない…!!急に年を感じた。今まで私も「若い」分類に入ってたし、なんなら今も「若い」の分類にカテゴライズしてもらえるかもしれないけど、そんな私でも驚くくらい時の流れが早い。

そんな私の感覚ではつい最近生まれた子が、センターに立っていた。MVの彼女はとてもミステリアスで無機質な感じで、独特なオーラを放っている。特にショートカットの揺れる髪からのぞく眼がとても不思議で刺激的だ。曲調からして強く睨みつけるような眼をしていても良さそうなのに、そういった圧力は一切なく、その変わりに凛と澄んだ空気を切り裂くようなパワーがあって、一瞬で引きこまれるのだ。あの眼を見るとすごくハッとする。あからさまな鋭さや闘志を感じるわけでもない、眠るように静かで、でもその奥底に誰にも譲らない意志と、まっすぐな強いエネルギーを感じる眼。この子のピンとした凛々しさがとてもこの曲に合っていると思った。

でも一番驚いたのはそこではない。私はこのMVを見た後、この平手友梨奈さんが気になって、いろいろな動画を見た。MV以外の彼女はさっきと打って変わってとても平凡に見えた。顔の印象もとても素朴でどこかまだ垢抜けないような子どもっぽさが残っている感じがした。あの時感じた、不思議なエネルギーはあまり見えなかった。本当にまだまだ子どものようなあどけなさが残っていてとても驚いたのだ。

と同時にやはりアイドルはすごい。センターはすごい。と納得した。なんでこの子がセンターなのだろう、前にいるのだろう、そう思ってもパフォーマンスを見たときや真ん中に立った時にすぐに理解するのだ。センターにはいつもそういう説得力がある。私はそのアイドルに真ん中に立った自身を持って「どうだ正解だろ」と教えられる瞬間が好きなのだ。そして「センター」という位置を務める責任感と覚悟を背負ったアイドルが圧倒的なオーラを放つ瞬間が好きなのだ。平手友梨奈さんはこの説得力がすごい。センターに選ばれたときは、震えた声で返事をし、ずっとうつむいたまま真ん中に収まった。そしてそのまま震える声で決意表明をした。あの子がこんなに、独特で圧倒的なオーラを放つから本当にアイドルってすごい。

このデビュー曲、アイドルらしくはないが、とても面白いと思う。こどもなりに、若者なりに、大人と対等に渡り歩く意志を持っている、私たちは支配される生き物ではないと言う、アイドル曲にしては詰まりすぎているメッセージが、アイドル曲のキャッチーさも混じっているメロディーで歌われることで、逆にスッと入ってくるのがすごく面白い。これこそ「若さ」を武器にしているアイドルにしかできない伝え方なのではないかと思う。そういう意味でも欅坂46のこれからが楽しみだし、次はどんなメッセージを武器にしてくるのかとても気になる。

要するに、こうやってまだまだ新しい形のアイドルに出会えるから、ほんとアイドルって楽しいよねたまんねー!!!!って話です。ここまで読んでなにをくどくど語っとんねん意味わからんわって思ったらとりあえずMV見よ。つべこべ言う前に一回見て。それか今週のMステに出るからそれ見て。なんかすげーから…!!!!!